神々と人々の絆(0)

 神様がたくさんおられると、喧嘩したり、徒党を組んだり、騙し合ったりと、神様同士の付き合いや争いが生まれ、人間関係ならぬ神様関係ができてきます。複数の神様がいれば、当然神様社会ができ、その仕組みや構造は人間社会とよく似たものになります。ギリシャ神話や『日本書紀』、『古事記』の中にもよく似たエピソードが数多く見られますが、それも複数の神様のつくる社会が人間社会に類似しているからと思われます。神と人間は全く異なるとしても、神様社会と人間社会は多くの共通点、類似点をもっているのです。

 ところが、唯一の神と複数の神は「神」の概念が根本的に違うと考えられ、それが宗教を理解する上での根本的な前提と見做されてきました。そして、キリスト教イスラム教と仏教や神道が根本的に異なるのは一神教多神教の違いにあると信じられてきました。神の社会学、神の心理学などは複数の神が存在する世界でしか意味をもちません。唯一神社会学は存在しませんし、倫理学などあり得ません。唯一神は孤立無援ですが、そのために倫理も道徳も必要としないのです。一人で暮らすロビンソン・クルーソーでさえ、周りの動植物に配慮が必要だった筈ですが、唯一神にはそれさえ無用なのです。でも、その絶対的な唯一神が人間を創ることになると、事態は変わり出し、神に忖度する人たちが様々な神擬きを生み出すことになるのです。

 神々の間の絆を言葉で具体的に表現した例となれば、「三神一体」であり、より具体的には「住吉三神」でしょう。複数の神はしばしば一つにまとめ上げられ、合体した形で信じられます。これは正に神の絆の証しでもあります。

 ヒンドゥー教は代表的な多神教ですが、そこでの三神一体(さんしんいったい)またはトリムールティとは、ブラフマーとヴィシュヌとシヴァは同一であり、これらの神は力関係の上では同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする三つの様相である、というヒンドゥー教の理論です。すなわち、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神、宇宙の創造、維持、破壊という三つの機能が三人組という形で神格化されたものであると主張するのです。ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァがそれぞれ創造、維持、破壊/再生の神を分担しているのです。

 『日本書記』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命と表記される三神の総称が住吉大神と呼ばれ、さらにそこに息長帯姫命神功皇后)を含めることもあります。 かつての神仏習合思想では、それぞれ薬師如来底筒男命)、阿弥陀如来中筒男命)、大日如来表筒男命)を本地とすると考えられました。こうなると、鬼に金棒どころか、神と仏の合体です。

 伊邪那美命火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立ちました。その後、伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとしますが、それが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行いました。このとき、瀬の深いところで底筒男命が、瀬の流れの中間で中筒男命が、水表で表筒男命が、それぞれ生まれ出たとされます。

 『日本書紀』によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅熊襲も平伏する」との神託を得ました。しかし仲哀天皇はこの神託に対して疑問を口にしたため、祟り殺されてしまいます。その後、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて新羅へ出航しました。皇后は神々の力に導かれ、戦わずして新羅、高麗、百済三韓を従わせたのです。これが神国日本と他国との戦いの最初の記述ですが、その後の外国との戦争に際して手助けする神々の一つが住吉大神なのです。

 「三位一体」はキリスト教において「父」と「子(キリスト)」と「聖霊」が「一体(唯一の神)」であるとする教えです。キリスト教で、神を考え、語るのに外せない言葉が「三位一体」です。ギリシア語ではΑγία Τριάδαラテン語ではTrinitas、英語では Trinity。「三位一体」は唯一の神が三つの姿になって現れるというもので、その三つが「父」と「子(イエス・キリスト)」と「聖霊」。父はイエス・キリストの父で、天地万物の創造主です。イエス・キリスト聖霊も、この父なる神から生まれました。聖書の中では「ヤハウェ」という名前で登場します。父である神の唯一の子がイエス・キリスト。人間も神の子供で、神によって創造されたものです。それに対してイエス・キリストは神自体から生まれた人です。聖霊は父である神の霊で、イエス・キリストを通して注がれたもの。聖霊は炎の形で表現されたりします。聖書の中では「聖霊による洗礼」とか「聖霊が降った」という言葉で登場します。

 三神一体、住吉大神、三位一体は「三つのもの」を除けば、まるで異なる概念だと教えられてきたのですが、このように見てくると、ついそこに共通するものを見出したくなる人が多いのではないでしょうか。神様の間の戦いにかこつけ、神の加護のもと、聖戦に明け暮れてきた歴史を振り返るなら、そこには神と人が敵、味方になって共に戦う姿が溢れているのです。

 そこで、謡曲『白楽天』、住吉大神を手掛かりにして、神と人の共同作業から見ていくことにしましょう。