視覚の精神化、それとも視覚の科学化

 視覚は眼という生得的器官の機能や能力のことだということになっていますが、眼は生得的でもその機能、能力は学習の結果、つまり獲得的だと考えられています。ですから、同じ対象を見ても誰も同じことを記憶し、報告する訳ではありません。視たものは表象と呼ばれ、視たものは知識を使って解釈され、何を視たかが判断され、見たものとして言葉を使って表現されます。この一連の過程によって「視覚の精神化(心象化、意識化)」が行われます。つまり、視たものが見たものや観たものとして言葉によって表現され、何であるかが判断され、イメージとして記憶されることになります。

 一方、視たものは情報そのものであり、データとして使われ、何を視たかが記録、報告されるというのが「視覚の科学化」と呼ばれてきました。これは視覚過程、視覚内容の物理科学化、情報科学化と言ってもよいでしょう。精神化によって主観的で個性豊かな視覚像の内容を個別化して表現し、述べようとするのに対し、科学化は客観的で公共的、実在的な視覚像の構成を正確に記述しようとします。

 視た内容、何を視たかが言葉によって表現されることを認めるなら、それは視覚像そのものではなく、その言語表現は主観的な内容として捉えられることになります。つまり、精神化は言語化、言語表現化とほぼ同じことになります。これに対して、カメラ・オブスクーラモデルは光学化であり、これは科学化の一つです。カメラ・オブスクーラは「暗い部屋」の意味で、写真の原理による投影像を得る装置のことです。実用的な用途としてはもっぱら素描などのために使われました。写真術の歴史においても重要で、写真機を「カメラ」と呼ぶのはカメラ・オブスクラに由来し、その原理はピンホールカメラと同じです。

 言語表現を通じて視覚とその結果を表現することと光学的なモデルによって視覚像を再現することは大変異なるものと考えられてきました。絵画や文学による表現は精神化された内容と思われがちですが、100%主観的な世界などどこにもなく、実際は精神化と科学化の両方の混合になっているのです。

 ところで、視覚は客観的な実在を写し取ることができるのでしょうか。顕微鏡や望遠鏡は視覚というより光学とその知識を利用した装置に基づいています。これは視覚だけでなく、他の感覚でも同様であるということから,様々な感覚の科学化が実行され、人工的な感覚装置、センサーが考案されることになりました。科学化された感覚は量化され、実用化され、私たちの社会でその役割を果しています。ロボットも車の自動運転もその成功はセンサーが鍵を握っています。

 「視覚とは何か」は意外に早く解明され、光学の適用例として科学化された優等生です。今ではレンズがどのように像を結ぶかは小学生にもわかります。他の感覚に関してはこれほど見事にはいきません。痛みなど科学では掴むことができないクオリアとしてもてはやされています。光学的なモデルが視覚の仕組みを明らかにし、光に適応した知覚としての視覚が解明されてきました。その結果、世界像が視覚像を基礎にして与えられることになります。そして、それが成功した説明になっていることは、単に科学的に理解できただけでなく、芸術的にも絵画の透視図法に結びついていることからもわかります。

 幾何光学の勝利によって、光の物理学と視覚の科学は同じものであることを示しました。視ることは絵画を通じて美術的にだけでなく、科学的に捉えられました。これは実に稀なことで、視覚は科学的に解明され、美術的に利用され、世界はそれによって真、善、美の三拍子の性質を獲得したのです。そして、この成功は他の感覚器官にも及ぶ筈です。