「紅葉狩」あるいは戸隠や鬼無里の鬼女

 葉が赤くなるのは葉の中のクロロフィルが分解され、赤いアントシアンが生成されるから。一方、黄色になるのはクロロフィルが分解され、黄色のカロチノイドが残るため。モミジは紅色の目立つカエデの仲間。カエデの中でも葉の切れこみの深いイロハモミジは葉が大変美しく、多くの人に愛でられてきた。モミジもカエデも「カエデ」、どちらも分類上はカエデ科のカエデ属。カエデは世界に幅広く分布するが、モミジとして親しまれているカエデは中国や朝鮮半島に数種自生するのみで、それ以外は日本列島に集中。カエデは日本で磨かれ、モミジと呼ばれ、日本の秋を代表する植物となっている。

 春の花見、秋の紅葉狩り、いずれも物見遊山と言ったのでは何か腑に落ちない。春の花に浮かれるのはわかるとしても、秋の紅葉に浮かれる人はいない。紅葉には心浮かれるのでなく、物のあわれを感じるのである。平安貴族たちは春の桜や夏の藤を愛でた。桜などは内裏に植えられていたが、紅葉を楽しむには自生する山に赴く必要があった。彼らにとって秋の行事はお月見と重陽(ちょうよう)の節句。彼らは美しい紅葉の赤に無常を感じ、やがて来る冬の寂しさ、枯れて散る葉に死を重ねていたに違いない。例えば、『平家物語』では、壇ノ浦の合戦の後、波間に平家の赤い旗が漂い、それは紅葉のようだった、という描写がある。平家の赤はもの悲しさを象徴する色。紅葉狩りを楽しむようになるのは室町時代以降のことで、茸狩り(きのこ狩り)、薬狩り(猪狩り)のように山へ出掛け、紅葉した赤い葉を拾い集めたことから「狩り」になったらしい。

 能の「紅葉狩」は、深紅に染まった紅葉の山中に鬼女が現れるというストーリー。黒味を帯びた山奥の紅葉の色は凄みが漂う。さて、そのストーリーはというと?戸隠山に「紅葉」という鬼女が住んでいた。山を降りては村人を餌食にするため、時の帝が平惟茂(これもち)に鬼退治を命じる。維茂が戸隠山に向かうと、美しい女たちが紅葉の下で宴を催している。維茂は酒宴に加わり、酔いしれ深い眠りに落ちる。この女たちこそ鬼女とその手下。罠にはまった維茂の夢に神が現れ、お告げとともに神剣を与える。危機一髪のところで目を覚ました維茂は、神剣によって鬼女を退治し、戸隠山に平穏な日々が戻る。多くの場合、能の鬼は女の妄念から生ずるのだが、「紅葉狩」ではそれとは反対に、鬼が美女に化けている。蛇足ながら、鬼が女に化けるより、女が鬼になる方がずっと自然で、リアルだと思うのだが…それとも、女が鬼になり、その鬼がまた女に変身すると考えれば、いずれでも大きな違いはないということか。

 戸隠だけでなく鬼無里(きなさ)にも伝説がある。平安時代、京に紅葉という美しい娘がいた。源経基の寵愛を受けた紅葉は正室から妬まれる。その正室を呪い殺そうとした罪で京から追放される。戸隠の山奥に流された紅葉はそこで源経基との子供を産む。紅葉は村人に京の文化や技術を伝え、「貴人」、「生神様」と敬われるようになる。今でも鬼無里には京と同じ地名が数多く残っているのは紅葉が京に因んでつけたもの。月日が経ち、京が恋しくなり、上京しようとすることを知った朝廷は平維茂を派遣し、紅葉討伐を命じる。紅葉は討ち取られ、この世を去る。あまりの強さに紅葉は「鬼女」と伝えられ、鬼のいなくなった里であることから「鬼無里」という地名になったという。

 さて、戸隠や鬼無里に善鬼と悪鬼の伝説が残っているならば、隣の妙高にも鬼伝説はないのだろうか。修験道の霊山であれば、その種の伝説があってしかるべきだと思うのだが…