健全なる異端、あるいは正統と異端の消滅

 健康と病気、正常と異常、正統と異端といった区別、あるいは差別が私たちの社会には歴然と存在している。あるものは不当な差別、別のものは必要不可欠な区別と捉えられ、差異や相違が社会そのものの基本的な特徴になっている。個人は個性をもつゆえに個別的に行動し、それと同時に利益を共有するゆえに集団のメンバーとして共同で振る舞う。個人や集団の間には意見の対立や異なる見解が常に存在し、それが社会を動かし、歴史をつくる原動力となってきた。

 そこで、適切な区別や識別の基準があるのかどうか探ってみよう。適正な基準があれば差別ではないという些末な結論を引き出すことではなく、その基準が「知る、わかる」という最も人間的な営みにどれほど深く関わっているかを知ることになると思うからである。その最も単純でわかりやすい基準の例は科学的知識。その知識に合致していれば真、そうでなければ偽ということから、区別が真なら不当な差別ではないということになり、不当な差別は偽なる言明に基づいてなされていると推測できることになる。この単純なアイデアを一般化すれば、科学知識には異端や正統という区別は原則的になく、真偽に基づくことが強いて言えば唯一の基準であるということを意味している。だが、実際には科学的な仮説に価値が紛れ込むことによって、価値から独立しているとは言い難い場合がある。何しろ科学そのものが異端の活動として教会から問題視された代表格だった。ジョルダーノ・ブルーノもガリレオ・ガリレイも異端者として審問を受けた歴史は誰もが知っている。

 人間には個人差があり、社会集団に意見の対立や異なる見解があり、それらが対立するのは当たり前の健全なことである。生き方、立場の違いは人間にとって不可欠なことだが、それらが正統、異端と区別されると、しばしば不当な差別につながる。だが、それを逆手にとって差別を強要するのがこれまでの社会的な習慣だった。それが政治や経済なら思想やイデオロギーに、宗教なら教義によって差別化が正当化され、何が正統、何が異端かが決定されてきた。そこで、まずは宗教での正統と異端の歴史的な例を振り返っておこう。

 

西欧の異端

 ヨーロッパでは2世紀頃に「異端」概念が登場し、それ以来様々な経緯の中で、キリスト教における「正統」の教義と共に形成されていった。まず2、3世紀のグノーシス主義を巡る論争があり、4世紀末までにキリスト教が国教化される過程で、正典としての新約聖書が確立、4、5世紀に正統教義を巡る論争を経て、451年カルケドン信条の制定で三位一体論、キリスト両性論が正統として公認され、文書として規範化されていく。異端とされた古代教派は次第に姿を消していくが、このキリスト教の発展の過程は「異端」を排除し、「正統」性を確立する過程であり、「正統」を権威づける制度として教会が誕生することになった。

 「異端」が再び語られるのは11世紀。西方教会フランク王国の力を背景としてキリスト教世界の拡大を進めたが、9世紀後半フランク王国が解体すると諸領主へ権力が分散し、封建社会化が進み、聖職者たちも地域社会との関係が強化され、聖と俗の密接な共棲関係が築かれる。「聖職売買」、「聖職者妻帯」が一般化する中で、レオ9世の教会改革を先駆として、グレゴリウス7世による「聖職売買」、「聖職者妻帯」の禁止やローマ教皇の首位権の主張、聖職叙任権闘争などの諸改革(グレゴリウス改革)が断行された。

 グレゴリウス7世は「カノッサの屈辱」によってハインリヒ4世に謝罪させたが、この教皇と皇帝との対立はキリスト教世界の秩序を巡る闘争であり、皇帝の反撃と教皇の死などもあって1122年のウォルムス協約で妥協がなされることとなる。この過程で聖俗の分離と教皇を頂点とする教会のヘゲモニーが確立することとなり、教会への服従が徹底されることになる。

 そして、ここに「不服従の異端」という考えが誕生する。教義的誤謬ではなく、教会の権威に従わないだけで「異端」とされ、信仰だけでなく、政敵や反抗的な人々、貧民、ハンセン病者、性的・道徳的逸脱などもまた「異端」とされるようになっていく。「異端」という言葉の適用範囲の著しい拡大によって、様々な「異端」が次々と登場することになる。一連のグレゴリウス改革は改革を巡って議論百出。教会が目指す改革の方向からずれる人々も数多く登場するが、服従か不服従かの差が即「異端」か否かの基準となった。

 12世紀から13世紀にかけて、カタリ派、ヴァルド派、聖霊派といった様々な「異端」が南フランスを中心に登場し、アルビジョア十字軍が組織され、異端討伐の軍が差し向けられた。そして、虐殺と強制改宗、異端審問が行われるようになる。実際、異端とされたヴァルド派とフランシスコ修道会の祖アッシジのフランチェスコの教えとの間に大きな違いはない。前者が教会支配に抵抗し、後者は教会に服従しただけに過ぎないのだが、その違いが前者は弾圧、後者は隆盛という不当な差別を生んだのである。教会とは違う救済の道を模索する運動が「異端」と呼ばれたのである。支配権の強化を望む教会とそれへの抵抗は、「正統」な権威による「異端」の排除という結果につながる。「不服従の異端」はやがて教会秩序を守る聖職者たちによって「悪魔の陰謀」と位置付けられていく。教会というキリストの身体を穢す者たちとして位置づけられた異端は、教会の側からはそれぞれの思想や教義は無視され、一括して弾圧されることになる。

 ヨーロッパ最初の異端審問は、1230年グレゴリウス9世によるもの。「異端的邪悪に対する審問」と呼ばれる司法手続きが托鉢修道会ドミニコ会フランシスコ会、アウグスチノ会、カルメル会)に委託され、ドイツのレーゲンスブルク、南フランスのラングドックなどに次々と設置され、キリスト教世界を脅かす「悪魔の陰謀という異端」を取り除くことが目指された。カタリ派やヴァルド派に対して異端審問が行われ、改宗に従わない者は火刑に処せられた。

 カタリ派の壊滅、ヴァルド派の逃走、聖霊派の消滅など14世紀半ばまでにヨーロッパでの異端審問は沈静化していくが、新たな異端を求めて15世紀に入って異端審問制度を導入したのがスペイン。スペインでの異端審問はそれまでにない凄惨なものだった。

 

浄土真宗の異端

 大谷派東本願寺新井別院は妙高市下町の旧北国街道沿いにある。願生寺はかつて越後ではなく信濃国水内郡平出村にあり、平出の願生寺と呼ばれていた。願生寺の由来は、『日本名刹大事典』に「新潟県新井市除戸。真宗大谷派、大高山。本尊は阿弥陀如来。開山は親鸞。開基は尊願坊。寺伝によれば、開基尊願坊は建久6年(1195年)法然の教化を受けて仏門に入ったが、のち健保2年(1214年)親鸞に帰依して下総国下河辺庄に一宇を建立。のち応仁2年(1468年)信濃国水内郡平出村に移り、九世英賢の天正年間(1571-1591年)上杉氏に招かれて新井に移転した。」と記されている。つまり、願生寺のルーツは下総国(千葉県)。15世紀に信州の平出村に移り、第9世英賢の時に越後の新井に移転、新井では願生寺と呼ばれた。実は、北信州から越後上越地方にかけての有力な真宗寺院は、願生寺と同じく関東に起源をもつ大寺院が多い。彼らは磯辺門流と呼ばれ、初期真宗門徒の有力な集団だった。

 越後と北信濃触頭寺院(ふれがしらじいん、寺社奉行に任命された特定の寺院で、地域内の寺院の統制を行なう)として絶大な教勢を誇っていた新井の願生寺と親鸞聖人の居多ケ浜上陸以来のゆかりの有力寺院だった高田の浄興寺との間に教義論争が巻き起こる。それは十五世英誓の時で、いわゆる異安心(いあんじん、異端のこと)事件。新井願生寺方と高田浄興寺方に分かれ、多くの末寺門徒と本山東本願寺を巻き込んで大論争に発展し、その裁定に寺社奉行が乗り出すまでになった。真宗では教義の解釈、受取り方の違いを「異安心」と言う。論争になったのは「小児(15歳以下の者)は往生して仏になれるか、なれないか。」という問題。この問題を巡って「小児は往生できる」という浄興寺方と「小児は往生できない」という願生寺方との主張が対立したのである。この論争は小児洗礼に関するキリスト教での論争に通じるもの。

 あくまでも強硬な願生寺方に困り果て、浄興寺方は本山に訴え出る。双方が本山に呼び出され、吟味され、その結末は願生寺方の敗北。首謀者は追放、願生寺は取り潰しと決まった。願生寺に加担した寺院は東本願寺の末流に留まるものと、取り潰しの難を逃れて仏光寺派に変わるものとに分かれた。
 しかし、願生寺は本山の一方的な処分に納得せず、翌年、江戸の寺社奉行に上訴する。そこで、大詮議が始まる。詮議の結果はまたも願生寺方の負けで、本山に逆らった不届き者という裁定が下った。信心のあり方、教義の解釈の問題は不透明で真偽の決着がつかないまま、願生寺側の訴えは却下された。浄土真宗では、古来より小児往生論が議論されてきた。これは「ものの分別もつかない幼児が浄土へ往生することができるのかどうか」について論争したものである。 異安心論争の裁定を取り持った東本願寺は貞享二年(1685)敗れた英誓を追放し、その後を新井道場とした。元禄元年(1688)東本願寺十六世一如上人が荒井掛所と改称し、以後教化統制に力を入れ、高田別院や稲田別院(光明寺)などの支院や願楽寺、聞称寺、照光寺などの寺院を合わせて60を越える寺をまとめる中心道場となり、明治9年(1876)に新井別院と名前を改めた。何度も災害にあい、現在の本堂は明治11年(1878)に雷による火災で焼失後、明治28年(1895)に再建され、桁行き、梁間それぞれ十八間は木造建築として新潟県最大級を誇っている。

 

 さて、「正統と異端」の二分法的分類の話に戻ろう。「仕分け」は私たちが「知る、わかる」ために必要な前提条項。その仕分けのためには、名詞、名辞といった言語-論理的な装置が不可欠。表現し、伝達するための装置としての言語には私たちの様々な知恵が豊富に組み込まれていて、言語使用自体が世界を仕分けながら表現していると言っても大袈裟ではない。言語に始まる分類学的精神は常識レベルでの分類システムを生み出し、遂にはリンネの分類学、さらに博物学に結実する。二分法、多分法と言った平面的な分類だけでなく、分類される項目は樹状(tree-like)に分岐し、遂には階層的(hierarchical)な構造にまで到達する。現在の私たちは世界を素粒子から始まる階層的な構造として捉えている。

 過去の歴史を暫し振り返るなら、哲学や思想の中での奇妙とも思える「あれか、これか」という対立構造と議論の方法が透けて見えてくる。人は戦うことによって歴史をつくってきたが、戦いに明け暮れるのは生活世界だけでなく、哲学や思想の世界でも同様で、その戦術が「あれか、これか」方式であり、勝ち負けというやり方を使って正しい結論を得るという弱肉強食の世界を演出してきた。皮肉なことに、思想、哲学、そして宗教も、実は戦いの中で真や善を勝ち取り、勝利者になることに邁進してきた。知識を承認するとはその知識の獲得レースに勝つことなのである。

 ギリシャ哲学史を習うと必ず出てくるのが一元論、二元論、多元論といった区別で、その区別を基準に眺めると、最も洗練された理論が原子論で、その原子論は多元論。こじれた師弟関係にあったプラトンアリストテレスの哲学は、それぞれ観念論と実在論の違いとされ、イデアや数学に心奪われたプラトンと実証的な観察と論理分析のアリストテレスの対立が強調された。中世の論争は実念論唯名論の間での、今ではピンボケの戦い。同じような戦いが唯物論と唯心論の間にも繰り広げられた。これも今では歴史のエピソードでしかない。争いによって真偽が決着するというより、争いに疲れ、あるいは争いが意味がなかったという終結が圧倒的に多かったことは、「あれか、これか」という戦術がいつも有効ではなかったことを示している。

 その戦術を有効にしたのが科学で、実験や観察という決着をつける方法だった。だから、科学は哲学や思想以上に戦いの形式が鮮明である。ホイヘンスニュートンの間での光の粒子説と波動説の対立はその典型例で、その決着は二転、三転する。マトリックス力学と波動力学は戦いというより、同じ理論の別表現ということがわかり、量子力学の理論完成のスタートになった。男と女の区別は科学どころではなく、現実の世界での戦いの主役である。長い男女関係の歴史の中で、性染色体の発見は性比の説明だけでなく、男女関係を一新したと言える。さらに、「物体とエネルギー、物体と精神、ものと心」といった対立項目を挙げると、近代以降の科学の展開も「あれか、これか」の戦いの図式に従って、さらに、それだけでなく実験・観察という実証研究が加わって、決着をつけることを目標に探求されてきたことがわかる。

 異なる理論の対立と戦いによる探求のための要素の一つが仮説。仮説がどのようなものかに応じて、価値判断が入ったものかどうかが決まるとなれば、仮説や仮定が価値判断を含むかどうかに依存することになる。科学理論であれば、仮説に価値が入るものというのはごく稀で、20世紀以降はまずない。だが、それが科学理論ではなく、哲学、宗教、思想、倫理、心理となると話は違ってくる。そこでは価値が入るかどうかより、実証的な検証ができるかどうかの方が重要になってくる。ケインズ経済学とマルクス経済学の違いは仮説の違いとして表現できる。プラトンの哲学とアリストテレスの哲学の違いも、彼らの哲学の仮説の違いに起因している。進化論の有名な論争にフィッシャーとライトの論争があるが、この戦いは仮説だけでなく、二人の個人的な恨みつらみにまで及んでいる。

 相対論と量子論ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は、それぞれ確かに対立する理論だが、いずれが真でいずれが偽かという単純な「あれか、これか」で処理できず、両方の総合が模索された。しかし、相対論と量子論の総合は未だできず、喫緊の課題となっている。

 最初に述べた異端審問あるいは異安心を思い起こしてほしい。正統と異端の間を峻別し、正統と呼んだ方を守り、異端としたものを葬ることが宗教ではいまだに顕著である。異端を排除するだけでなく、自らの教説の中でも天国と地獄、あの世と俗世、聖と俗と言った二分法的区別を頑強に守り続けている。戦いの構図から平和の構図を見出し、「あれか、これか」の戦いが終わった時、平和が訪れるのだろうか。人の思考形態は圧倒的に戦いの図式を好み、それに慣れ親しんでいるようである。

 宗教は人の生死に係わりながら、不思議なことに過度の単純化を望む。宗教はどれも劇的な効果を欲し、シエクスピアまがいのロマン主義の中で人々に語りかける。そして、異なる宗派の間では「あれか、これか」の二者択一を私たちに迫る。二つの教義をミックスし、よりよい教義に修正し、それを実証的に確かめる、などと言うことは宗教にはあり得ないことである。これが単純化の一例。宗教は経験に学ぶということをしない。経験に学ぶのは宗教家だけである。宗教は不完全、不十分、相対性、暫定性、局所性を認めない。宗教は超越的な神、超自然的な現象を導入して、神に対する経験的なものを認めない、不思議な体系である。自然科学とは両立しない存在が正に神である。さらに、どの宗教も自らの宗教教義の体系に誤りはないと誇る。現在では絶対に誤らない教義体系があったとすれば、その体系に誤りがないことの証明が不可能な体系だとわかっていて、宗教はその意味で無矛盾な体系ではないことになる。

 私たちは相対的で、誤り得る体系しか知らない。宗教の教義体系は冷静にならなくてもエキセントリックなことに誰もが気づくが、誰もそれを話さない。聖域とされているのかも知れないが、宗教はやはり不思議なシステム、組織をもち、その教義は納得できない主張を多く含んでいる。無神論者から見るなら、その最も不合理な主張とは、「神が存在する」ということ。

 価値判断や意見、評価を含む微妙な概念群を幾つか挙げてみよう。これらはいずれも純粋に科学的な概念ではなく、科学的な要素を含むとはいえ、価値判断の入り込んだ、いわば不純な概念である。

 

生物多様性、生命の尊厳、文化遺産世界遺産、自然保護、健康、病気、種の絶滅、種の保存、気象、災害、保護、エネルギー

 

 さて、ほら話はこのくらいにして、二分法と価値判断の具体例を取り上げ、比較しておこう(正常モデルと変異モデルの区別はE. Sober, The Nature of Selection, MIT Press, 1984に負う)。

1アリストテレスの正常モデル

どのようなものにもそれ本来の存在の仕方と場所があり、その本来的な姿を正しく把握することが本質の理解につながるというのがアリストテレスの正常モデルの考え。アリストテレスの物理学は目的論に満ちている。彼は星も有機体に劣らず、目的志向型のシステムであると信じていた。内的な目的が重い対象を地球の中心へと引きつける。重い対象はこれを自らの機能としてもっている。どんな対象にもその自然状態があり、その対象の不自然な状態から区別される。対象が不自然な状態にあるのは外部からの干渉が働いた結果である。自然な状態にある対象に働いて、その対象を不自然な状態にする干渉力は、自然なものを偏向させる原因である。したがって、自然の中に見られる変異は自然な状態からの偏向として説明される。干渉力がなければ、重い対象、軽い対象はみなそれぞれの本来の場所に存在することになる。ニュートンとそれ以後の物理学には「自然な」、「不自然な」という語は登場しなくなるが、アリストテレスの区別はそれらの物理学においても可能である。対象に働く力がなければ、当然、干渉力もない。力学での自然状態は力の働かない状態であり、慣性の法則がこれを表現している。また、目的と機能はアリストテレスでは結びついていたが、ニュートン以後の物理学では切り離されている。

  このモデルは物理的なものだけではなく生物に対しても適用される。人間の正常な姿が人間の本質を具体化したものであり、その本質からずれたものが正常でないものである。それら異常なものはたとえ出現しても選択され、支配的になることはない。このモデルは天体の構造や生命現象を大変うまく捉えている。模範になる姿があって、それに外れるものはたとえ存在しても、あくまで例外に過ぎないという訳である。

2ダーウィンの変異モデル

アリストテレスの正常モデルと根本的に異なるのがダーウィンの変異モデルである。彼は生物集団の中には常に変異が存在し、それが個体差として選択のふるいにかけられ、生存と生殖に関して有利なものがその集団の中で次第に多数を占めるようになるという、いわゆる自然選択(淘汰)説によって生物の進化を説明した。この説明の出発点は変異の存在である。この変異、個体差には正常も異常もない。あるのは個体間の差だけであり、この差が選択の原動力になっている。したがって、正常、異常とはある時点の集団の多数派、少数派に過ぎなく、本質的なものではないことになる。最初から「正常」、「異常」が固定されているのではなく、多数派と少数派の選択的な変化によって進化を説明するという方法は、正に民主主義の根幹を表していると過大に評価することもなされてきた。

 

このように見てくるとアリストテレスニュートンダーウィンの違いは歴然としている。では、私たちが現象を考える際、いずれのモデルで考えているのか。多分、物理現象、生命現象に関してその原理的な部分ではニュートンダーウィン風に、私たち自身の身体的特徴、行動に関してはアリストテレス風に考えているのではないだろうか。異常な行動は大抵の場合悪い、してはならない行動とさえ考えられている。このように述べただけでも、そのような分析が価値判断を含むかどうか、価値判断からは中立かといったステレオタイプの問題ではないことが明らかだと思う。

 アリストテレスのモデルが(かつて考えられていたように)正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は優れて科学的な概念であり、それら概念を正しく使っての判断は正しい科学的な判断である。一方、ダーウィンのモデルが正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は科学的に誤った概念であり、それら概念を使っての判断は科学的に誤った判断ということになる。この表現のどこにも価値判断など入っていない。問題は「正常」、「異常」を最初から価値判断が入っていると思い込むことである。確かに、より複雑な人間の行動に関しては科学的でない基準や約定が関与しており、そこから価値判断を含んだ「正常」や「異常」が生まれ、伝統をつくってきた。しかし、それら基準や約定は科学的な知見に依存している。その科学的な知見が正しいかどうかを判定するのはいずれのモデルを選ぶかという問題であり、価値判断とは独立した事柄なのである。