変化の歴史(11)

小中生のための哲学(15)

[ラマルクの進化論]

 1801年からラマルク(Jean Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck, 1744-1829)は進化理論の詳細について発表し始めます。ビュフォンが既に生物の進化の可能性を示唆していましたが、彼は進化のメカニズムについて正面から論じたのです。ラマルク主義という語は現在では獲得形質が遺伝するという考えを意味するように使われますが、ラマルクが信じていたものはずっと複雑なものでした。1809年、最初の一貫した進化論がラマルクによって主張されました。有機体は環境によって受動的に変えられるのではなく、環境の変化がその環境に棲む有機体の要求(besoin, needs)の変化の原因となり、それが有機体の行動の変化を引き起こします。変更を受けた行動は構造や器官の使用の差を生み出します。使用は構造のサイズの増大を世代を通じて引き起こします。一方、不使用は構造を小さくしたり、消滅させたりします。使用、不使用によって構造は大きくなったり、小さくなったりします。これを彼は『動物哲学(Philosophie zoologique)』(1809)で第一法則と呼びました。そして、それが遺伝可能であるというのが第二法則です。これら法則の結果はすべての有機体の連続的、漸進的な変化でした。有機体の生理学的要求が環境との相互作用でつくりだされ、それがラマルク的な進化をもたらします。『動物哲学』でラマルクは十分な時間の中で種が変化する環境に反応して変化するとして進化を捉えました。ここでラマルクは解剖上の構造を環境に関連付けることによって適応の起源を考えています。つまり、動物に見られる特徴はそれらを取り巻く物理的な環境と整合しています。でも、どこから新しい特徴が出てくるのでしょうか。残念ながら、彼の思弁的な解答は彼の他の価値ある貢献を無にするようなものでした。

 ラマルクは『無脊椎動物の自然誌(Histoire naturelle des Animaux sans vertèbres)』(1815)で新しい形質は環境の変化に反応して個体の生涯の中で生じると説明しました。つまり、個体は環境を評価し、それに応えて僅かで不完全な内的順応を行います。これが個体に変化を引き起こします。そして,それが子孫に伝わり、同じような過程が繰り返されます。この過程は何世代も続き、種は完成の点に到達します。

 ラマルクは遺伝と繁殖の関係を把握していました。適応的な形質は次の世代に伝えられます。適応は何世代にも渡る小さな変化によって次第に改良されます。でも、次の二点で彼は誤っていました。(1)彼はどのように新しい形質が現われ、変種を生み出すかを誤解しました。(2)生態学的な圧力がどのように変種を生み出すか気づきませんでした。

 ラマルクは進化を次の二つの原因から考えています。

 

完全性への駆動

有機体の環境への反応と適応の能力

 

 マイヤー(Ernst Myre)によれば、ラマルクは生気論者でも目的論者でもありません。彼は環境こそが進化を推進する力だと考え(ダーウィンは変異の結果を分けるのが環境だと考える)、使用を通じて遺伝されて強化される器官と、使わずに弱められる器官を区別しました。

 ラマルクの進化メカニズムはダーウィンのそれとは異なりますが、予測される結果は同じです。環境の変化によって引き起こされる、長時間に渡っての、系統内での適応的な変化がその結果です。ダーウィンと同じように、ラマルクも自分の理論を支持するために家畜や飼料に言及しています。今では機能していない器官、成熟するとなくなる構造等も挙げています。彼は地球の歴史が極めて古く、そこでの自然選択の可能性さえ示唆しています。

 ダーウィンは最初ラマルクの用不用説を否定しましたが、『種の起源』の後の版ではそれを認めています。ラマルク流の遺伝は現在では遺伝学上否定されていますが、メンデルの遺伝法則の再発見までは誰も遺伝のメカニズムを知りませんでした。

 幾つかの点でラマルクの理論は現代の進化生物学とは異なっています。ラマルクは無機物から完全な存在までの漸進的系列というボネー(Charles Bonnet, 1720-1793)の新プラトン的見解を採用し、それを修正し、時間的な移行の原理を加えました。さらに、彼はこの移行が階段状ではなく、分岐的な樹状であると考えました。でも、その樹はダーウィンとは違って、単系統ではなく、異なる系統毎に複数考えられました。彼は進化を偶然によってではなく、複雑さと完全さが増大する過程と考えていました。ラマルクは絶滅を信じていませんでした。消えたように見える種は異なる種に進化したのです。ですから、彼は単純な有機体が恒常的に自然発生することを仮定しなければなりませんでした。

ダーウィンとウォーレス:生態学的な圧力と自然選択]

 ダーウィンは当初エディンバラ大学で医学を学ぶ予定でしたが、彼には全く興味がありませんでした。さらに、神学もあきらめましたが、熱心な博物学愛好家でした。彼の生涯での転機は世界を巡る航海でした。ケンブリッジのヘンスロー教授の薦めで、探検船ビーグル号に乗ることになったのです。そして、1831年12月ダーウィンは歴史的な旅に出ることになりました。

 ビーグル号は地球一周に5年を要しました。その使命は立ち寄る各地でのすべての研究でした。ダーウィンの進化論者への転身はこの旅の間に起こりました。南アメリカの沿岸を旅しながら、彼はかつてフンボルト(Alexander von Humboldt, 1769-1859)がしたのと同じ観察をしました。種の物理的な特徴と物理的な環境の間には密接な関係があるように見えました。類似した、しかし異なる種を数多く見ることによって、ダーウィンは神がなぜこのように多くの数の系統を造ったのか疑いをもちました。

 動植物の研究に加えて、彼は地質学的な特徴も考察しています。そして、携帯していたライエル(Charles Lyell, 1798-1875)の『地質学原理(Principles of Geology)』(3 volumes, 1830-33)の内容にも心を奪われていきます。内陸の調査では地質学的研究と化石の収集を行ない、ライエルとハットンの理論が観察結果と合致することを確認しています。

 ガラパゴス諸島ダーウィンにもっとも不思議な動物相を見せてくれました。約20の小島からなるガラパゴス諸島ダーウィンがもっとも驚いたのは、そこに見出される26種の鳥のうち21種が世界の他の場所には見られないものでした。他の動物種も多くは島固有の種でした。どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。

 長い旅の後で、彼はガラパゴスフィンチの観察結果をどのように説明するか考察を始めます。1842年にダウンに落ち着き、彼は動植物の飼育の過程に強い関心をもちます。例えば、彼は農夫が特定の特徴をもつ牛、羊、穀物をどのように育て上げるか研究しています。家畜化の研究によって彼は新しい変種を生み出す方法として自然選択の概念をもつようになりました。

 マルサス(Thomas Malthus, 1766-1834)は1798年刊行の『人口論An Essay on the Principle of Population, as it Affects the Future Improvement of Society)』で有名です。彼の重要な予測は、人間の人口は誰にでも十分な食物を供給する資源を超える点まで増える、というものでした。 ダーウィン1838年にこの本を読み、フィルターの役割をするメカニズムとして生態学的な圧力の重要性に気づくことになります。

 ダーウィンは彼の新しい洞察の重要性をじっくり考えながら、それらをノートしていきました。ライエルと個人的に意見を交わしましたが、ライエルはその内容の出版を勧めます。にもかかわらず、ダーウィンは出版しませんでした。ウォーレス(Alfred Wallace, 1823-1913)もマルサスの本を読み、ダーウィンと同じような刺激を受けました。ウォーレスはマレー半島で研究しながら、自然選択による進化という考えにダーウィンとは独立に到達します。1858年に彼は自分の考えをまとめ、それをダーウィンに送ったのです。それは ‘On the Tendency of Varieties to Depart Indefinitely from the Original Type’ という論文でした。ライエルの心配はここで現実のものとなりました。その内容はダーウィンが考えていたものと同じだったのです。そこで微妙な調整がフッカーとライエルによって考えられ、ダーウィンとウォーレスの二人の共同論文という形をとってリンネ協会で1858年に発表されることとなりました。その少し後に、ダーウィンは『種の起源』(1859)を刊行しました。

ダーウィン革命]

 1859年のダーウィンによる『種の起源』の刊行は知的歴史の新しい時代を切り開きました。彼は有機体が進化することを示す証拠を集め、その進化の過程、仕組みとして自然選択を発見しました。ダーウィンの仕事の意味は、3世紀前の物理世界におけるコペルニクス革命の完成でもありました。16,7世紀のコペルニクスケプラーガリレオ、そしてニュートンの発見は宇宙の仕組みが人間の理性によって説明できることを明らかにしました。地球は宇宙の中心にはなく、小さな惑星の一つに過ぎなく、宇宙は時空的に広大で、太陽の周りの惑星運動は地上の物体の運動と同じ法則によって説明できることが示されました。これらの発見は人間の知識を拡大しただけでなく、それらによって知的な革命がもたらされました。宇宙が自然現象を引き起こす内在的な法則に従うという仮定を置くことによって、宇宙の諸現象は(宗教や形而上学ではなく)自然科学の対象となり、自然法則を通じて説明されることになりました。

 ダーウィンはこのコペルニクス革命を受け継ぎ、運動する物体の法則的なシステムとしての自然を生物学に拡大することによって革命を完成させました。この拡大によって、有機体の適応と多様性、高度な形態の起源、さらには人間の生物的な起源が自然法則に支配される自然変化の過程によって説明されることになります。それまでは有機体の起源とその見事な適応は科学的に説明されず、全能の創造主のデザインに帰されていました。神はすべての生き物を造り、私たちが見ることができるように私たちの眼をつくりました。あるいは、水中で息ができるように魚にえらを与えました。哲学者も神学者有機体の機能的なデザインは全能の神の存在を明らかにするものだと論じていました。デザインのあるところにはデザイナーが必要です。それは時計の存在が時計作りの職人の存在を含意するのと同じで、この世界のデザイナーが神でした。

 ペイリー(William Paley, 1743-1805)は『自然神学(Natural Theology)』(1802)で創造主の存在証明としてデザインからの論証を入念に行いました。ペイリーによれば、人間の眼の機能的なデザインは神の存在の決定的な証拠を与えてくれます。人間の眼が単なる偶然によって存在すると仮定するのは意味がなく、ばかげていると彼は書いています。また、人間の手の構造と機能も議論の余地のない証拠として挙げられています。

 物理科学の進展によって自然法則による科学的説明が地上と天上の物質世界を支配することになりました。生物世界にもこの科学的説明を適用し、デザインによる説明を否定し、真に統合的な科学的説明を徹底したのがダーウィンです。

 ダーウィンの自然選択による進化のモデルは次のような事柄からなっています。

 

生物集団は有機体からなり、その形質は互いに変異している。

多くの形質の変異は遺伝する。

ある形質の変異は他の変異より有利である。

変異が有利か不利かは集団の棲む環境に依存する。

特定形質の変異の頻度は生存と繁殖の違いによって長時間にわたって変化する。

進化は集団や種に起こるのであって、個体に起こるのではない。

子孫はその両親に似ているが、正確に同じではない。

有機体は生存できる以上の子孫をつくる。

資源が限られているゆえ、過剰の有機体の間には競争がある。

 

(問)上の事柄を使って自然選択による進化の説明構図を考えてみましょう。

 

 このようなダーウィンの自然選択モデルとペイリーやラマルクの考えを比較してみると、ダーウィンの考えの斬新さが明らかになるでしょう。比較のために下にペイリーとラマルクのモデルの特徴を挙げておこう。

 

ペイリーのモデル

有機体の環境への適応の完全性の説明は知的なデザイナーによる。

種は固定しており、その本質的な型は不変である。

ラマルクのモデル

種の変化を説明するのに有機体の要求(needs)が仮定される。

遺伝は特定の身体部分の用不用によって影響を受ける。

 

(問)ダーウィン、ペイリー、ラマルクの生物についての考えの違いを説明しなさい。

 

[歴史から]

  これまで物理的な自然生命的な自然をそこでの変化をどのように考えるかを中心にして考えてきました。僅かな歴史的事実だけから一般的な結論を出すことは危険ですが、今までの歴史的な概観からまとめることができる内容は次のようになるでしょう。

 

 ギリシャ哲学はプラトンアリストテレスに代表される、異なる総合をもたらしたが、いずれの総合も基本的な点で問題を含んでいました。変化についてのギリシャ哲学の探求は自然主義からスタートし、合理的な説明を目指しました。その最終版の一つがアリストテレスであるとすれば、ガリレオに始まる経験科学はアリストテレスへの異議申立てです。自然主義的探求はアリストテレスの誤った総合からの開放であり、それが物理学や生物学といった経験科学を生み出したのです。