変化の歴史(2)

小中生のための哲学(6)
[変化の自然主義的説明]
 哲学史ではターレスの名前がいつも最初に出てくるのですが、アリストテレスは彼が「水がすべてのものの起源(アルケー)である」(『形而上学』、983b18)と主張したと述べています。彼の理論は一般的で、観察に基づき、超自然的なものに頼っていないという点で、自然主義的な説明の最初の例になっていて、それまでのゼウスやポセイドンが引き起こす自然変化の擬人的説明とはっきり異なっています。ターレスはすべてのものを自然的対象である水によって一元論的に説明する、つまり、複雑な現象を単純で基本的なものに還元することによって説明しようとしたのです(水が単純で、基本的とはどのような意味でしょうか。また、水は本当に単純で、基本的でしょうか。)。これは彼が典型的な自然主義者であったことを物語っています。
 このターレスに対して、水は冷たく、湿っているという確定した性質を既にもち、それらを使っただけでは暑い、乾いたという対立する性質を説明できないと反論したのがアナクシマンドロスでした。彼は空間的、質的、時間的に無限定な「アペイロン」という自然的ではない、理論的、仮説的な実体を使ってすべてを一元論的に説明しようとしました。アナクシメネスターレスと同じようにアルケーとして空気を仮定します。これは一見ターレスへの回帰に見えますが、アナクシマンドロス反自然主義的な仮説の欠点を補うためでした。彼らはいずれも一元論者であり、現代の超紐理論(Superstring Theory)のように一つの理論ですべてを説明しようとします(現在このような理論はTheory of Everythingと呼ばれています)。アナクシメネスが空気で強調したのは、それが観察できないものに依存せず、かつ質的な違いを量的な違いに還元できる点でした。自然の変化を量的な変化として理論化できると考えた点がアナクシマンドロスともターレスとも違う点です。
 イオニアの哲学者の考えで重要なのは物理科学の始まりを示す新しい説明様式にありました。すべてのものがつくられる究極的な実体はターレスでは水、アナクシメネスでは空気、そしてヘラクレイトスでは火という自然の中の実体でした。
[変化か不変か]
 ヘラクレイトスは変化そのものに注目し、それこそが自然理解の鍵と考えました。困惑を引き起こすだけのような彼の「万物流転」の理論はプラトンによっておよそ次のように紹介されています(『クラチュロス』402A)。ヘラクレイトスが言うには「すべては変化し、静止しているものはない。存在しているものを川の流れにたとえれば、人は同じ川に二度と入ることはできない。」。では、ヘラクレイトスの難解な理論はどのような内容なのでしょうか。プラトンは流動理論とも呼べるこの理論が、すべては常に変化し、どんな対象もその構成成分を不変のまま保持しないという主張だと捉えました。でも、ものが動いている過程のようなものであれば、そのものが変化の中でその同一性を保つことは不可能ではありません。これは流動性にも程度があることを暗示しています。すると、次のような二つの理論あるいは解釈が考えられます。

(強い流動理論)
どんな対象もあらゆる点でいつでも変化している。だから、持続するものはない。
(弱い流動理論)
どんな対象もある点でだけいつでも変化している。だから、持続するものがある。

では、ヘラクレイトスの流動理論はどのようなものなのでしょうか。彼の変化一般、特に流れる川の議論から、変化と持続は両立すると考えることもできます。弱い流動理論から、人は同じ川に入ることができるが、その川の水は違っていると主張できます。でも、プラトンによればそれは同じ川ではありません。というのも、川の水が違うからです。いずれの解釈でも、流動理論は成立しています。でも、流動理論から同一性とその持続の問題がうまく説明できるかどうかは不明です。これがヘラクレイトスの遺した問題です。プラトンの解釈ではヘラクレイトスは同一性に関する存在論(メレオロジー)を前提しています。これは、対象の同一性はその構成部分の同一性に依存するという考えで、次のように定式化できます。

どんな複合的対象x、yについても、x=yなら、xのすべての部分はyの部分であり、yのすべての部分はxの部分である。

つまり、部分の同一性は全体の同一性の必要条件になっています。弱い流動理論ではこのような主張は成立していません(なぜでしょうか)。
 流動理論を主張するヘラクレイトスとは違って、パルメニデスは変化そのものを否定します。変化は不可能で、その概念は矛盾を含んでいます。この主張は彼にとって仮説や観察の結果ではなく、演繹的推論の結論でした。また、彼は生成や消滅の不可能性も同じように演繹的推論の結論と考えました。パルメニデスは彼の中心的な主張を支持するために次のような推論をしています。まず、次の二つの前提をおきます。

(1)ものを考えることができるなら、それが存在することは可能である。
(2)存在しないものは存在することができない。

この(2)は次の(3)と同じです。

(3)存在できるものは存在する。

したがって、(1)と(3)より、

ものを考えることができるなら、それは存在する。

そして、これは次のものと同じです。

存在しないものは考えることができない。

したがって、存在しないものは考えることも、そして、当然語ることもできません。この結論がパルメニデスの中心的な主張です。

(問)パルメニデスの推論を、T(x): xは考えられるものである、E(x): xは存在する、◇:可能である、を使って記号化してみよう(論理学を知らない人は無視してほしい)。

 パルメニデスの推論では様相の違いは無視され、区別がなくなっています。つまり、「可能的なもの=現実的なもの」という関係が成立しています。では、パルメニデスの推論は正しいのでしょうか。最初の前提(1)は正しそうに見えます。考えることができないものが存在するとは想像しにくいからです。でも、前提(2)はどうでしょうか。実際に存在しているものだけが存在可能であるとは考えにくいのです。では、なぜパルメニデスはこのように考えたのでしょうか。多くの意見が出されていますが、本当のところはわかりません。パルメニデスはこの結論から次のように自分の主張を導き出します。その推論方法は、例えば、変化が存在することを主張しようとすれば、存在しないものについて語ることになってしまい、上記の結論に反してしまう、という帰謬法です。こうして、以下のような主張がなされることになります。

1生成や消滅は存在しない。
2 変化は存在しない。
3 運動は存在しない。
4 多数性は存在しない。

現在の私たちはこれらの結論のどれも正しいとは思いません。では、パルメニデスの推論に誤りがあったのでしょうか。存在しないものは存在できない、存在の否定は存在の不可能性だと彼は考えました。また、すべての否定は存在の否定だとも考えています。これらは概念と存在が限りなく近いような特殊な状況でなければ成立しないでしょう。でも、このような状況は特殊ではなく、意外と身近にあることを示してくれたのがパルメニデスの弟子ゼノンです。