アリストテレスの正常(normal)モデル

小中生のための哲学(3)
[性についての伝統]
アリストテレスは生殖を他の動物と比較することによって研究した最初の人であり、彼の考えによれば、精子が胎児を産み出す種をもち、月経の血がそれを成長させる土壌です。アリストテレスは、胎児を形成し、成長させるのは霊魂であり、男はその形相因、機動因であり、女はその質料因であると考えました。彼の考えはトマス・アクィナスに引き継がれ、カトリック神学の基盤となります。人間の誕生はまず植物的、次に動物的、最後に人間的の順で起こります。この考えから初期の教会では嬰児殺しより、植物的段階の堕胎に対する倫理的な反対の方が少なかったのです。また、精子は生命の本質であるので、それを浪費することは重大な罪とみなされました。イスラム教では女の精子も生殖において血や肉を造る素になると考えられ、男の精子だけでは生命はできないので、男の精子の浪費は問題ではないとされました。こうして、マスターベーションに対してキリスト教イスラム教で異なる態度が取られることになりました。

(問)なぜ多くの生物には性があり、オスとメスの性比は通常1:1なのでしょうか。まず、性比について性染色体を使って性比が1:1であることを説明しなさい。また、関心のある人はフィッシャーの性比(sex ratio)のモデルを調べ、そのモデルによる説明と性染色体を使った説明を比較し、何が異なるか示しなさい。

 性やジェンダーの議論に限らず、人間の心理や行動を語る場合、「正常」、「異常」という言葉が多用されます。「異常性愛」という言葉は正常な性愛があって、そこからのズレと考えられています。「正常」や「異常」には事の「善し悪し」に似た、価値判断が含まれているようにみえます。ここには規範にかなっていれば正常、もとれば異常という判断が含まれているように思われます。そのような判断が含まれていれば、「正常」や「異常」を含む考察や研究は価値判断を含むものとなってしまいます。類似の例は「健康」と「病気」です。このような理解はどこから生まれてきたのでしょうか。

(問)「正常」と「異常」について自分が今までどのように区別していたか要約しなさい。

[科学的知識と正常モデル]
 どのようなものにもそれ本来の存在の仕方と場所があり、その本来的な姿を正しく把握することが本質の理解につながるというのがアリストテレスの正常モデルの考えです。アリストテレスの物理学は目的論(teleology)に満ちています。彼は星を有機体に劣らず、目的志向型のシステムであると信じていました。重い物体はそれがもつ内的な目的によって地球の中心へと引きつけられます。重い物体はこれを自らの機能としてもっています。どんな対象にもその自然状態(natural state)があり、その対象の不自然な状態から区別されます。対象が不自然な状態にあるのは外部からの干渉が働いた結果です。自然な状態にある対象に働いて、その対象を不自然な状態にする干渉力は、自然なものを偏向させる原因です。したがって、自然の中に見られる変異(variation)は自然な状態からの偏向として説明されます。干渉力がなければ、重い対象、軽い対象はみなそれぞれの本来の場所に存在することになります。ニュートン以後の物理学には「自然な」、「不自然な」という語は登場しなくなりますが、アリストテレスの区別はそれらの物理学においても可能です。対象に働く力がなければ、当然、干渉力もありません。物理学での自然状態は力の働かない状態であり、慣性の法則がこれを表現しています。また、目的と機能はアリストテレスでは結びついていましたが、ニュートン以後の物理学では切り離されています。
 このアリストテレスのモデルは物理的なものだけではなく生物に対しても適用されます。人間の正常な姿が人間の本質を具体化したものであり、その本質から外れたものが正常でないものです。それら異常なものはたとえ出現しても選択され、支配的になることはありません。このモデルは天体の構造や生命現象を大変うまく捉えています。模範になる姿があって、それに外れるものはたとえ存在しても、あくまで例外に過ぎません。現在でも理科室にある動植物の標本はその種を確認するための模範となる標本(模式標本)と理解されています。

ダーウィンの変異モデル]
 アリストテレスの正常モデルと根本的に異なるのがダーウィン(Charles Darwin, 1809-1882)の変異モデルです。彼は生物集団の中には常に変異(variation)が存在し、それが個体差として選択のふるいにかけられ、生存と生殖に関して有利なものがその集団の中で多数を占めるようになっていくという、いわゆる自然選択説(theory of natural selection)によって生物の進化を説明しました。この説明の出発点は変異の存在です。この変異あるいは個体差には正常も異常もありません。集団内の個体に模範となる正常なものも異常なものもありません。あるのは個体間の差だけです。そして、この差が選択の原動力になっています。したがって、「正常、異常」とはある時点の集団の「多数派、少数派」に過ぎなく、本質的なものではありません。

(問)ダーウィンの「自然選択、人為選択」と統計学の「サンプリング」を比較し、共通点を述べなさい。また、サンプリングエラーと遺伝的浮動(genetic drift)を比較し、共通点を探してみなさい。特に、バイアスのあるサンプリングと選択を比較してみてください。
(問)「自然選択」という概念は擬人的でしょうか。「動く」と「選ぶ」という表現を手掛かりに考えてみなさい。
(問)自然選択と性選択(sexual selection)は何が異なるのでしょうか。

[二つのモデルの違いと価値判断]
 このように見てくるとアリストテレスニュートンダーウィンの違いは歴然としています。では、私たちが現象を考える際、いずれのモデルで考えているでしょうか。多分、物理現象、生命現象に関してその原理的な部分ではニュートンダーウィン風に、私たち自身の身体的特徴、行動に関してはアリストテレス風に考えているのではないでしょうか。異常な行動は大抵の場合悪い、してはならない行動とさえ考えられています。このように述べただけでも、そのような分析が価値判断を含むかどうか、価値判断から中立かどうかといったステレオタイプの問題ではないことが明らかでしょう。

(問)宇宙の仕組み、環境問題、友人関係を考える場合、いずれのモデルを使って考えてきたか振り返ってみてほしい。また、「基準」と「規準」の違いは何でしょうか。

 アリストテレスのモデルが(かつて考えられていたように)正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は優れて科学的な概念であり、それら概念を正しく使っての判断は正しい科学的な判断です。一方、ダーウィンのモデルが正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は科学的に誤った概念であり、それら概念を使っての判断は科学的に誤った判断ということになります。この表現のどこにも価値判断など入っていません。問題は「正常」、「異常」を最初から価値判断が入っていると思い込むことです。確かに、より複雑な人間の行動に関しては科学的でない基準や約定が関与しており、そこから価値判断を含んだ「正常」や「異常」が生まれ、伝統をつくってきました。しかし、それら基準や約定は科学的な知見に依存しています。その科学的な知見が正しいかどうかを判定するのはいずれのモデルを選ぶかという問題であり、価値判断とは独立した事柄です。

(問)奇(畸)形という概念が科学的か否か述べなさい。また、「高等生物」、「下等生物」という表現はどんな基準に基づいていたのでしょうか。