「dialectic」の想い出

 1980年頃私はある学会の事務仕事をしていて、各理事の専門分野等どうでもいいことが記憶に残っている。今では考えられないことだが、政党の党員、弁証法唯物論やカント主義の専門家が多くを占め、私が高校時代に想像したものと大差なく、私が大学で論理学や科学哲学に親しんだ経験とは異質のものだった。先日若い銀行員と話していた折、「マル経、近経」という単語を知らないことに自分の年齢を感じてしまったのだが、弁証法唯物論、カントなど今の若者は知らないのかも知れない。
 高校時代の記憶の中には「弁証法は形式論理とは違う真の論理学」、「歴史発展は弁証法の論理に従う」といった文言があり、私の哲学事始めの頃の懐かしい台詞。実際、弁証法は論理ではなく、歴史発展は弁証法的ではない。
 ディアレクティック(問答法、dialektike、dialectic)というソクラテス起源の言葉を、カントもヘーゲルも自分の哲学のキーワードとして使ったが、その使われ方は異なっていた。だから、違う訳語が使われ、カントは「弁証論」、ヘーゲルは「弁証法」。
 カントはdialecticを「仮象の論理学」と呼び、否定的に使った。人間には理性の働きがあって、その理性が生み出す理念には経験的証拠を持たない純粋に観念的な概念があり、カントはそれを仮象と呼んだ。その仮象の出現と限界について議論するのがdialecticの役割。仮象は観念的なもので、或るテーマについて背反する言明をつくることがある。その代表がアンチノミー(二律背反)。例えば、宇宙の起源について、宇宙には始まりがあった(宇宙は有限である)といい、同時に宇宙には始まりはなかった(宇宙は無限である)と主張できる。これらは相互に矛盾した言明であるから同時に成り立つことはない。だが、その論理的に矛盾する言明がどちらも正しそうに思われ、そこに仮象の面白さがある、とカントは考えた。だが、そもそも純粋な観念や純粋な物自体はあるのだろうか。
 否定的なカントと違って、ソクラテスにとってdialecticは真理を発見する手段。ある事柄について多面的に見ることによって、その事柄の奥に潜んでいる真理を見出す、これがdialecticの役割だった。ヘーゲルは、そのソクラテスの立場に従い、dialecticの意義を積極的に評価し直した最初の哲学者。ソクラテスにとっての弁証法的方法は、相手の言明をまず否定し、それを相対化し、第三の言明、つまり肯定と否定の統一ともいえる言明を導き出すというやり方だった。ヘーゲル弁証法も、否定、分裂、統一といったものを巡って動いていく。だが、ヘーゲル弁証法ソクラテスのそれとでは大きな違いがある。ソクラテスの場合、dialecticは真理発見のためのテクニックだが、ヘーゲルの場合、dialecticは人間の認識活動のあり方そのもの。
 例えば、植物の種がまかれ、そこから芽が出、芽が成長して茎や葉や花となり、再び種にもどる。つまり、種が否定され、芽が生成し、芽が否定され、茎や葉や花が生成し、茎や葉や花が否定されるのだが、その否定から新たな統一が生まれる、そのプロセス全体が当該植物の真理なのだ、というのである。このように、人間の認識活動とその対象と、両者にわたってdialecticが作用している。なぜかと言えば、人間の認識活動も、その対象としての世界も、ともに絶対精神が自己疎外をし、外化した形で現れたものだからである。ヘーゲルによれば、絶対精神そのものがdialecticなものだから、個別の人間の認識作用も、それが対象とする世界もdialecticなのである。この「何でも弁証法」は万能薬のようなものでしかない。
 ここまで見てくると私たちはカントでもヘーゲルでもなく、ソクラテスに戻ろうと気づくのではないか。