指示の本性

[ラッセル, 指示について]
Bertrand Russell, On Denoting, Mind 114 (456):873 – 887.『現代哲学基本論文集』第I巻、「指示について」清水義夫訳 勁草書房、1986年、pp.47-78.
意味についての素朴な理論は、単称名辞「t」の意味はその指示である、という主張である。単称名辞「t」が指示をもたないなら、「…t …」という文は無意味である。この理論がもつパズルをラッセル風に表現すると次のようになる。それは空虚な名辞のパズルと呼ばれる。現在のフランス王はいないので、「現在のフランス王」は指示をもたない。だから、(1)は無意味である。だが、そうではない。

(1) 現在のフランス王は禿げである。

次は排中律である。(1)と(2)は共に無意味である。だが、一方は真である。

(2) 現在のフランス王は禿げでない。

(問)上の(1) と (2) の一方が真であることを説明しなさい。

さらに、真なる否定的存在命題がある。(3)は無意味である。だが、それは真である。

(3) 現在のフランス王は存在しない。

同一性についての情報性のパズルと呼ばれるものがある。太郎は次郎の父であるので (4a)-(4b) は同義である。だから、次郎と太郎の関係を知らない誰も、(4a)を学ぶ際に何も新しいものを学ばなかったはずである。だが、誰も何か確かに学んだ。

(4a) 次郎の父は太郎である。
(4b) 太郎は太郎である。

次は代入性のパズルである。次郎は(5a)-(5b)の両方を共に信じることができない。だが、太郎を知らない彼にはできる。

(5a) 太郎は死んでいない。
(5b) 次郎の父は死んでいる。

パズルに対するラッセルの解決はどのようなものなのか。その一般的戦略は、確定記述は真の単称名辞ではなく、その機能は指示するのではなく、記述することである、というものである。空の名辞が引き起こすパズルへの返答を考えてみよう。
禿げの現在のフランス王が一人だけいる、は事実ではない。だから、(1)は偽である。だが、それは無意味ではない。排中律については、(1)が偽であるから、(2)は真である。真なる否定的存在命題である(3)は真であり、現在のフランス王はいない。
また、同一性についての情報性のパズルへの返答は次のようである。「次郎の父」は「太郎」を意味していないので、 (4a) は(4b)と同義ではない。むしろ、「次郎のただ一人の父がいて、それは太郎である」である。
代入性のパズルへの返答は次のようになる。「次郎の父」は「太郎」を意味しないので、次郎は(5a)-(5b)を信じることができる。

ラッセルの固有名の理論)
論理的に固有名でない名前に対して、その名前の意味はある確定記述と同義である。この理論の意図はパズルを避けることにある。素朴理論が直面したパズルは、名辞が確定記述の省略であれば氷解する。誰なのか。「三郎は誰なのか」と尋ねたとき、人は自然に彼の確定記述を答えにする。私たちは他人、神聖ローマ帝国等々を見知ってはいない。それゆえ、大半の名前(三郎、神聖ローマ帝国)は論理的には固有名ではない。もし私たちが他人の知識を持つことになるとすれば、そして私たちは確実にそうするのだが、それは記述によるものでなければならない。

(問)形式言語における定項、変項と自然言語における固有名(詞)と指示代名詞を比較し、それぞれの意味や役割を説明しなさい。

[クリプキ:名指しと必然性]
S. Kripke (1980), Naming and Necessity, Cambridge: Harvard Univ. Press.『名指しと必然性──様相の形而上学と心身問題』、八木沢敬・野家啓一訳 産業図書、1985

固有名(詞)の記述理論は(ミル、ラッセルの理論等から)伝統的な理論として多くの人に受け入れられてきた。そして、その主張は次のような内容であった。

1どんな名前「n」も性質の集まりに結びつき、xが信じる性質はnについて真である。
2 xはそれら性質から唯一つの個体を取り出すことができると信じている。
3 yがこれら性質の大半をもっているなら、yは「n」の指示対象である。
4 これら性質の大半をもつものがなければ、「n」は何かを指示しない。
5 「nはこれら性質の大半をもつ」をxはアプリオリに知る。
6 「nはこれら性質の大半をもつ」とxによって言われた文は、必然的な真理を表現する。
C これら性質は循環がない仕方で選び出されなければならない。(つまり、性質は指示という概念を使って定められてはいけない。)

このような記述理論に対する反対は幾つもあるが、まず6に対する様相概念を使った反論を考えてみよう。「アリストテレス」に「アレキサンダー大王の先生」という記述を結びつけ、次のように言うとする。

(A) アリストテレスアレキサンダー大王を教えた。

6によれば、(A)は必然的な真理を表現している。だが、(A)が必然的な真理を表現しているというのは正しくないだろう。なぜなら、アリストテレスは教育学を研究したことはなかったし、アレキサンダー大王を教えたのは偶然的なことに過ぎないようにみえるからである。アリストテレスが彼に典型的に結びついた性質のどれかをもっているというのは偶然的な事実である。彼は子供のうちに死んでしまったかもしれないのである。
次に、3に対する意味論的反論を取り上げてみよう。 次郎は「ゲーデル」に「算術の不完全性を証明した」を結びつけるが、私たちに知られない事実があり、それによると算術の不完全性はシュミットによって証明されたのだとしてみよう。次郎は次のように言う。

(G) ゲーデルはドイツ人だった。

もし3が真なら、次郎が実際に言及していたのはシュミットだった。だが、次郎はシュミットに言及しなかった。

5に対しては、様相の場合と同じように、(A)が真であるのはアプリオリではない。 2についての反論は次のようになる。次郎が次のことを言う。

(F) ファインマンは有名である。

だが、ファインマンについて、彼がアインシュタインやホーキングたちとは何が違うかを次郎はまるで知らない。
「「ファインマン」という名前の物理学者」という記述が彼だけを選び出すことになるかも知れないが、(C)に違反する。
 4に対する反論に移ろう。誰も不完全性定理を証明していないなら、次郎の記述を誰も満たさない。だが、次郎は、それを知らなくとも(G)を発話することによってゲーデルを指示している。

(指示の因果的描像)
名前の指示は因果関係の特殊なシステムによって固定される。最初の洗礼によって名前が何を指示するかが決められる。名指しによる洗礼は、それを名指し、「私はそれを…と名付ける」と言い、それが認められることである。記述による洗礼もある。新しくつくられた名前は言語共同体内で伝達され、因果的なる鎖を形作る。「ファインマン」は両親に命名された名前であり、その名前は他の誰かに伝達され、その伝達が因果的に続くことによって「ファインマン」がファインマンを指していることが事実になっていく。そして、私たちは「ファインマン」を正しく使って、ファインマンについて語っている。
指示の因果的描像は次のようである。固有名「n」がxを指示するとは、それが「n」の発話の系列の最後のもので、その系列の最初のメンバーがxを指示する「n」の最初の洗礼で、他のメンバーが以前のメンバーに「正しく結合」しているということである。

(固有名と厳格指示)
厳格指示と非厳格指示の区別が重要である。厳格指示の定義は次の通りである。

ある表現eが厳格指示子である iff e がすべての可能世界で同じ対象を指示する

小泉進次郎」は厳格指示子だが、「小泉進次郎の次男」はそうではない。「小泉純一郎の次男」は異なる可能世界で異なる指示をもつことができる。では、二つの厳格指示子が同じ指示をもつ場合は、どうなるだろうか。それらは必然的に同じ指示をもつ、ということが次の論証から導かれる。aとbを厳格指示子とする。

(7a) a = bと仮定する。
(7b) 「a」はすべての可能世界でoを指示する。
(7c) 「b」はすべての可能世界でo を指示する。
(7d) それゆえ、a = b iff o = o。
(7e) 必然的に、o = o。
(7f) それゆえ、必然的にa = b。

(問)上の論証をきちんと証明しなさい。