量子の世界の非常識

 量子が存在するミクロな世界はとても奇妙な世界です。どのように奇妙なのかとなると、常識のマクロな世界に対して、非常識のミクロの世界と呼ぶことができます。その非常識さはどれもどんな怪奇小説より奇々怪々で、ミクロな世界では常識が通用しないのです。

 量子力学の肝心な点の一つが状態の重ね合わせ(superposition)と呼ばれるものです。さいころやコインを投げるのとは違って,「状態」が 重ね合わされて (つまり、状態ベクトルの足し算によって)確率が決まるのです。何かが起こる確率の段階で足し算をするのではなく,その一歩前の「状態」という非常識的なレベルで足し算が行われるのです。日常世界とは隔絶したミクロなレベルでこのようなことが起こっていて、それを示す多くの証拠があります。量子力学の上に現代の科学技術のすべてがつくられていますから、それが間違っていては技術は信頼できなくなります。ですから、ミクロのレベルでこのような非常識を受け入れざるを得ないのですが、それはマクロな世界でも成り立つかとなると様々な不都合が起きることになります。生きた猫と死んだ猫の重ね合わせの状態など本当にあるのでしょうか。ミクロの世界の状態の重ね合わせは認めるにしても、マクロな世界で生死の重なった猫など存在できるのでしょうか。扉を開けて確かめなくても猫の生死は確定しているのがマクロな世界で、それが素朴実在論の立場です。
 物理学や天文学は人の世界観や哲学を根幹から変えてきました。原子論の実験的検証によって、世界が何種類かの粒子からできているという考えは確信に変わりました。20世紀に入り、アインシュタイン相対性理論は空間と時間についての私たちの常識を根底から覆し、日常経験を越えた世界があることを主張しました。その後に登場した量子力学は因果性とか実在性といった根本的な常識を覆してしまいました。その後の技術の進歩によって、当初は思考実験でしかなかった二重スリットの実証的な実験も行われ、ミクロの世界とマクロの世界は別物だと言えなくなりました。実在性や因果性の問題を多くの人は私たちの認識が不十分なために起こることだと見做したかったのですが、アスペの実験によって、そのような望みは絶たれました。ですから、人は人の常識的な理解を超えたものを受け入れざるを得ないという非常識の立場にあるのです。
 ギリシアの原子論と量子力学以後の現代の原子論の間には大きな違いがあります。ラボアジェの原子論は科学的根拠をもとに主張されたという点ではギリシアの原子論とは異なるのですが、そこで想定されている原子はギリシアのものと基本的に同じです。いずれもいくつかの種類の元素があり、その元素は同じ性質を持った粒子です。同じ元素はパチンコやピンポンの球と違って、それらを区別することはできませんが、一方をA、他方をBと名づければ、AとBは区別できることになります。ところが、量子力学の原子はA、Bと名づけることさえできないのです。箱の中に二つの同じ種類の粒子を入れておきます。例えば、ヘリウム原子を二つ入れ、この箱の真ん中に仕切りを入れたとき、左側と右側にはいくつの粒子が見つかるでしょうか。何度も実験した結果から、その確率を調べることができます。もし原子が一つだったら、左に見つかる確率が 1/2,右に見つかる確率も 1/2 です。二つがパチンコ球のような粒子なら、右の箱に二つ見つける確率は 1/4、左に二つ見つける確率は1/4、右と左に一つずつ見つける確率が 1/2です。ところが、ヘリウム原子で同じことをやると、それぞれが起きる確率がすべて等しく1/3になるのです。これは二つの原子が識別できないことを意味しています。
 量子力学の不思議な予言が実験的にも確かめられるようになったのは前世紀の末になってからです。量子力学は私たちが持っている実在という概念の意味を根本から問い直し、素朴な実在概念を否定しました。科学者の多くは素朴実在論の立場に立って世界を考えています。さらに、「局所的(local)」という概念を加えて世界を考えています。局所的と言うのは,起きた変化が遠方まで一気に及ぶのではなく、近接作用で伝わっていくということです。電磁気の法則が近接作用に基づくように、物理学は因果関係の連鎖を認めることを基本的な考え方にしてきました。私たちの意識の外に物は存在しており、因果的関係によってその変化が起こっています。因果的な関係は時空において網のように連続的につながっているのです。さらに、この因果的関係は原因と結果が一対一に対応していて、確率的ではないというのが常識的で伝統的な考えでした。ですから、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言って、統計的な言明を認める量子力学を不完全なものと考えたのです。アインシュタインポドルスキー,ローゼンとともにEPR Paradoxと呼ばれる思考実験を提案して、量子力学から導かれる結論が私たちの持つ因果性の考えと矛盾することを示し,量子力学は不完全だと主張しました。
 物事を常識的に、つまり、古典物理学的に考える人にとって局所的因果律のない世界を素直に受け入れることはできません。アインシュタインが最後まで量子力学を受け入れなかったのはこのためです。局所的因果律を信じるか、量子力学を信じるか。これは私たちの哲学的な信念の問題ではなく、実験によって確かめるべきなのです。そして、量子力学が正しいか、局所的因果律が正しいかについて、さらにベルの不等式について、強い相関を持った光子対を使って確かめる実験がクローザー,ホルン,シモニー,ホルトによって行われました。さらに、1975年から1982 年にかけてアスペらは一連の実験を行い、ベルの不等式は本当に破れているという確定的な結果を得ました。
 これらの非常識をまとめると次のようになるでしょう。

(1)マクロな常識的世界では物理的な対象の状態変化は連続的だということになっていて、私たちの知覚経験もそれを認めているのですが、ミクロな世界では物理的対象の状態変化が不連続的に起こることが可能となります。滑らかな変化、スムーズな変化、連続的な変化が運動変化の基本にあり、非連続的、突発的な変化は物理的でない変化を表すのに使い分けられてきました。常識の世界では時間も空間も一様に変化することが前提されてきましたので、ギャップのある時間や空間は不自然で、非常識と見做されてきました。
(2)その不連続的な変化では、ある状態から移りうる状態が複数あり、そのどれにいつ移るかは全く確率的な事柄、出来事であるというのがミクロな世界です。すると、そこでは原因と結果の1対1対応がなくなり,決定論的な因果性が成立しなくなります。変わっていく個々の変化が一意的でない理由は、私たちの知識がまだ不十分で正確な予測ができないからではなく、私たちの知識とは無関係に本質的に不確定なのです。「本質的に不確定」が何を意味しているかは実のところよくわかっていません。わかっているのは「本質的に確定的」が真ではないということです。
(3)宇宙を作る単位となる粒子(「particle、粒子」は文字通りの粒ではなく、比喩的な表現)が存在し、同種の粒子は全く区別ができず、本質的に同じものなのです。つまり、私たちは粒子を識別することができないのです。
(4)古典的な原子論や科学的実在論の根幹にある「原子の素朴実在論(naive realism)」は成り立ちません。とはいえ、この素朴実在論に代わる哲学が(多くの候補が出されてはいるものの)何かはまだ誰もよくわかっていません。それゆえ、量子力学を知れば知るほど、量子力学の主張がわからなくなるのです。

 このような大雑把な要約をより丁寧に考えるためにはしっかりした文献リストが不可欠です。昨日量子力学の哲学に関する文献リストをPhilosophy Societyに掲載しました。「Reading list on philosophy of quantum mechanics, David Wallace, June 2018」を参照して下さい。また、この名称で検索すれば、簡単に読むことができます。