妙高やアマゾンの風景、風土とその変化

 私たちは妙高、戸隠の見事な風景、景色に魅了されるのですが、普通は考えることもない風景、景色、景観、風土といった概念が何かを探ってみたくなります。「今眼に見えているもの」を知覚像と言いますが、それが風景を生み出しています。

私がいま海岸に立って青い海の上を帆に風を一杯はらんで走っているヨットを見ているとする。私は首を横に廻して、今度は砂浜で石をひろっている子供たちを見る。知覚像の点からみれば、私が首を廻して砂浜をみた瞬間に海やヨットの知覚像は消失して、その代りに砂浜の子供たちの知覚像が生じるだろう。勿論、そのときの知覚像も一つの風景として生じるけれども、このばあい、前の風景は消失し、後の別の風景が見えているのである。更に私が後をふりむけば松林とその背後の緑の山々が私の新しい知覚の風景としてあらわれてくる。しかし実際には、私はこれら三つの別々の風景を別々に見ているのではない。最初に見ていた海上の知覚の風景は私が首を廻して砂浜の子供たちを見たときには知覚の風景としては消失しているけれども一瞬前に見ていたものの記憶のイメージとして残っており、この記憶のイメージによって補填されたより広い全体の風景のつづきにある砂浜の子供たちが、現在の私の知覚の風景となっているのである。さらに後をふりむいて松林やその背後の山々の風景を見ているときにも、海やヨットや砂浜や、そこに遊んでいる子供たちの風景は記憶のイメージとして私に現前しており、新しい松林やその背後の山々の知覚の風景の周囲の風景を補充することによって全体としての、今私が立って見廻している海岸の風景を形成しており、このような私を取巻く風景のなかに私は自分自身をおいて見ているのである。私の知覚の風景は部分的であり、断片的にすぎないが、私のイメージの風景はそれらを補填し、つなぎ合わせて私をとりまく環境の全体の風景をつくり上げているのである(沢田允茂『認識の風景』岩波書店、1975年、69-70)。

 知覚像から風景へとなれば、風景の次は風土。『風土-人間学的考察』(岩波文庫、1979)は和辻哲郎の名著。和辻は倫理学に基づいて風土と文明の関係を考察しています。20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは「存在とは何か」という問いを発し、「現存在」としての人間存在を分析し、『存在と時間』を著しましたが、若き和辻はそれに衝撃を受けます。人は自分に過去や未来があり、いつか死ぬとわかっています。ハイデッガーは、そうした人間の現存在を時間との関わりの中で論じ、存在の意味を時間の中に見出そうとしました。でも、和辻はこれに異を唱え、人間存在は単に個人として生き、また死ぬのではなく、社会的な存在であり、他者と交わる空間の中で生きているゆえに、人間の存在は、時間性とともに空間性からもとらえる必要があると和辻は考えました。簡単に言えば、「時間性とは歴史的、空間性とは風土的」ということです。そこで、和辻は風土の研究を行い、その成果が1935年に刊行された『風土-人間学的考察』です。
さて、和辻の「風土」とはどのようなものでしょうか。物理的な自然環境ではなく、風土は主体的な人間存在の表現であり、人間の自己了解の仕方です。何だか難しそうですが、例えば、寒気は、私たちの外に実在し、私たちに迫ってくる物理的なものではなく、私たちが寒さを感じ、私たちがそこに寒気を見出すのです。また、私たちは、他人と同じ寒さを感じ、共通の経験を持つことができます。寒さの感じ方自体が、間柄的で共同存在的です。和辻は述べます。「寒さにおいて己れを見出すのは、根源的には間柄としての我々なのである」、「すなわち『風土』において我々自身を、間柄としての我々自身を、見出すのである」と。要は、寒気は低温の気体のもつ物理的な性質ではなく、私たちが共同して持つ心理的で、文化的な性質だということです。なんだか説得力がありそうには思えないのですが、ガリレオ、そしてロックやヒュームを思い出せば納得できるかも知れません。彼らは私たちが経験する性質を第1性質と第2性質とに分け、第1性質は客観的な物理的性質、第2性質は主観的な心理的性質としました。第1性質は物理量と呼ばれるもので、質量、運動量、エネルギー、エントロピーといったものです。一方、第2性質は色、音、味のように感覚器官によって感じられる性質で、感覚器官が生み出したものとみなされました。随分昔から感覚器官を通じて気づく世界は最初から主観的なものを色濃くもっていると考えられてきたのです。和辻の「寒気」は単に主観的なものではなく、私たちが皆感じることのできる共同主観的なものでもあります。和辻によれば、人間存在は時間的と同時に空間的存在であり、歴史的・風土的な特殊構造を持っています。それゆえ、地球上の地理的条件による風土の多様性が諸文明の多様性の基礎となっている、これが基本テーゼということになります。なんだか言わずもがなの感があります。

 私たちは日常生活で物の形や色を断片的に見ているのではなく、まとまりのある風景を見ています。ですから、私たちの知覚像は風景なのです。それら知覚像が風景の基本になって、眼を転じることに応じて刻一刻と変わる知覚像は記憶のイメージによって補填されて私がその中で暮らす環境全体の風景をつくり出しています。雑多な知覚像の集まりは記憶や知識に助けられて一幅の風景画のように景色や風景として認識されるのです。それが風景だと述べた沢田は私の師であり、哲学の先輩でした。そして、この環境全体を空間的に、そしてより俯瞰的に風土と捉え、それを分類したのが和辻でした。
 さて、「ふるさと」を沢田の「風景」や和辻の「風土」を使って見直してみるとどうなるでしょうか。私たちがふるさとの景色、風景、あるいは情景として思い起こすのは、沢田の知覚の風景、和辻の風土を土台にして、見られ、感じられ、思い起こされる自然、街並み、行事などです。物理的な自然に私たちの生い立ちが融合し、土地と歴史と文化を含んだものが私たちの心の風景として醸成されていて、それが「妙高」という言葉に象徴されているのです。私たちが思い出す妙高山は宙に浮かんだ山ではなく、風景の中の妙高山であり、私たちの風土の象徴になってきたのです。
 このような平時の風景に対して、戦争や災害の非常時の風景が考えられます。そのような例が幾つかの震災、台風、戦争等ですが、今話題になっているのがアマゾンの森林災害。放牧地や畑を作るために森林を焼く場合が多く、現在ブラジルのアマゾン熱帯雨林で多くの森林火災が猛威を振るっています。その規模は、過去10年で最大。特に北部のロライマ州アクレ州ロンドニア州アマゾナス州、そして南部のマットグロッソ・ド・スル州などで被害が大きくなっています。ブラジル国立宇宙研究所(INPE)によると、ブラジルではアマゾン地域を中心に、森林火災の発生件数が2018年の同時期と比べて85%増加。INPEの人工衛星データによると、今年1~8月21日の間に7万5000件以上の森林火災が発生し、昨年の同期間の3万9759件を大きく上回っています。ブラジル最大のアマゾナス州では非常事態宣言が発令され、悲惨な風景が報道で流れています。
 火災による煙は、アマゾン地域から周辺地域へと広がり、EUコペルニクス気候変動サービス(CAMS)によると、煙は大西洋岸まで到達。CAMSによれば、今年に入ってからアマゾンの森林火災で1億1700万トン相当のCO2が排出されました。世界最大の熱帯雨林を擁するアマゾン盆地は、CO2を吸収するため、地球温暖化の緩和に大事な要となってきました。また、300万種もの動植物が生息し、100万人の先住民族が暮らしています。しかし、森林が焼かれると、CO2の吸収率が悪くなるだけでなく、吸収されていたCO2が大気中に放出されます。740万平方キロメートルの面積に及ぶアマゾン盆地は、ブラジル国境を越えて広がります。ヴェネズエラでもこれまでに2万6000件を超える火災が発生。
 私たちが風景や景色と呼ぶのは大抵は平時の風景や景色。観光としての妙高や戸隠の風景は明らかに平時の穏やかで美しい風景であり、戦時や非常時の異常な風景ではありません。でも、風景も風土も様々な状況の風景や風土です。妙高や戸隠の住人のもつ妙高や戸隠の風景は観光客の風景だけでなく、雪に埋もれ、大雨の中にある風景、風土も含まれています。同じように、火災だらけのアマゾンの風景、風土は観光用の風景、風土ではありません。
 戦争、気象変動、災害等が増え、風景や風土の変異の幅が広がり、それによって異常なな風景や風土が増え、風景や風土の概念が変わり、それが定着しつつあるようです。つまり、異常な風景、風土が尋常なそれらに変わってしまい、風景や風土に関する議論が再度求められているのです。これまで規則的、周期的に変化してきた自然の風景は安定した自然観、風土観を生み出してきましたが、不安定で、予測できない、不規則な風景、光景が頻出するようになってきています。地球という自然がもつ規則的な変化が変化し始め、地球の風景や風土が変わり出しているのです。
 そして、その異常な変化の原因は何と私たち自身なのです。風景の変化を通じて私たちがその変化の元凶だと気づいても、私たちは素直に直そうという決断ができないままです。『風の谷のナウシカ』の漫画版はそれを予告するかのようなストーリーになっているのですが、もっと多くのストーリーがないと、無責任と優柔不断が生み出す腐海は意識されないままで、私たちを待っているのは手遅れしかなさそうなのです。