8月15日に思い、調べたことをまとめると…

 戦後生まれの私には軍歌の記憶などほぼないのだが、「海行かば」だけは私の記憶の中になぜか残っている。その記憶の中の「海行かば」は勇ましく、心を奮い立たせる軍歌ではなく、鎮魂の、悲しみに満ちた歌。「海行かば」はとても不思議な(軍歌らしくない)国民歌謡で、万葉集大伴家持長歌をもとに、信時潔が作曲しました。太平洋戦争の(戦死者などの)戦果発表をNHKが伝える際、必ず冒頭曲として流されていた。歌詞は、「海行かば水漬く屍 山行けば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」と短く、その意味は「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後悔は決してしない」。
 私には「海行かば」がなぜか学徒出陣と重ね合わされていて、学徒への厳粛なる鎮魂歌になってきた。しかし、本来の大伴家持の歌は鎮魂歌などではなく、忠誠心や覚悟を詠っている。作曲したのは牧師の息子だった信時潔。彼は東京音楽学校を出て、留学先のドイツでゲオルク・シューマンに師事、帰国後に東京音楽学校教授となる。信時自身の生い立ちやキリスト教信仰から生まれたこの歌は、太平洋戦争時に天皇に忠誠を尽くし命をささげる歌として広く歌われた。
 「海行かば」は作曲者の意図とは遠く離れ、その上、私には亡くなった兵士への鎮魂歌として記憶された。これほど誤解にまみれた「海行かば」が今でも忘れ去られない理由は何なのか。信時潔はクリスチャン。「海行かば」では、「大君の辺にこそ死ねめ かへりみはせじ」となっているのに対し、ルカによる福音書9章60-62節では、イエスが「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と述べらている。また、信時はバッハのコラール(ルター派の教会で全員が歌う讃美歌のこと)に強い影響を受け、単純な旋律で、誰もが歌うことができるように「海行かば」を作曲している。大君がキリストならば、「海行かば」はコラールと言ってもよいのではないか。
 さて、話は変わるが、私には慶應義塾の旧塾歌(塾歌とは校歌のことで、学生ではなく塾生と言うに同じ)を歌った経験がなく、入学以来現在の塾歌を歌ってきた。角田勤一郎作詞、金須嘉之助作曲による旧塾歌がつくられたのが1904(明治37)年。1925(大正14)年この旧塾歌を刷新しようという声が起こり、翌年塾監局は金五拾円で新塾歌の歌詞を公募。でも、与謝野寛(鉄幹)、小泉信三らが審査したが該当作品はなく、新塾歌制定は見送りとなる。1936(昭和11)年塾歌制定委員会が開かれ、作詞を塾職員の富田正文、作曲を東京音楽学校信時潔に依頼することに決まる。信時はヨーロッパ留学後、多くの歌曲を発表し、もっとも有名な作品は日本放送協会の委嘱で1937(昭和12)年に発表した「海ゆかば(彼の自筆の原稿のタイトル)」だった。塾歌はその3年後の1940年にできるが、作曲家には好みのコード(和音)があり、それが作品に反映される。「慶應義塾塾歌」と「海ゆかば」を歌い比べるなら、冒頭のコード進行がよく似ていることに気づく筈である。妙に私の心に残るのは塾歌とコードが似ていることにもあったようである。誤解にまみれた「海行かば」が今でも私の中に残るのは曲自体が音楽的に優れているだけでなく、長く親しんできた塾歌との類似性からなのかも知れない。
 『慶応歌集』(応援指導部編集兼発行、音楽之友社刊、1982年』には「校歌の使命」と題して信時自身が次のように述べている。 
「大阪に育ち、郷土にご縁の深い福沢先生を敬慕し来った私は、往年塾歌作曲の委嘱を受け、冨田先生の歌詞を読んだ時、人知れぬ感動を覚えた。曲はほとんど一気にでき上がり、初めて三田の講堂に立って学生諸君の練習を聞いて一安心し、その後野球試合等で塾歌が漸次板についてくるのを喜んでいたが、百年祭の堂々たる合唱を聞いて、作曲者として我子の盛宴に連なる如き思いがした。譜面で見る塾歌は歌詞とお玉杓子の行列だが、それを生かすのは歌者の心意気である。学窓の諸行事を初めとし、あるいは山路の独り歩きに、あるいは花々しい競技のクライマックスに、さまざまの感激と追憶をこめて歌われるうちに、歌曲は年輪を重ね、蘚苔を加えて同窓の心に生きるのである。そうなれば歌も曲もただちに歌う者自身のものとなる。それこそ詩歌と音楽の使命理想であり、作者の念願この上ないよろこびである。」
 佃靖彦氏によれば、「ピアノ伴奏と旋律」、「男声合唱正譜」の二つが塾歌として正式に認定され、1941(昭和16年)1月10日福沢先生誕生記念会で発表されたとのこと。最初から「男声合唱正譜」が編曲されることは珍しく、ワグネル・ソサィエティーに合唱団があったことが理由と推測できる。そのワグネル・ソサィエティー昭和15年昭和35年までは「男声合唱正譜」(昭和15年オリジナル版)を使っていたが、昭和36年~37年は北村協一編曲版を使う。昭和38年に塾歌を作曲した信時潔に編曲を依頼し、信時は新編曲版制定に快く応じ、それが昭和56年8月まで新編曲版として歌われてきた。昭和56年ワグネル・ソサィエティーを指導していた木下保が「男声合唱正譜」(昭和15年オリジナル版)を演奏し、以後「男声合唱正譜」(昭和15年オリジナル版)は信時音楽の最高峰の一つとして蘇り、今日まで歌い継がれている。
 塾歌の作詞、作曲はそれぞれ富田正文、信時潔であり、彼らが直接の貢献者なのだが、彼らを支えた二人が与謝野寛と小泉信三だった。その紆余曲折の過程はいかにも私学の、それも慶應義塾の特徴が出ていて、その粘り強い協力と団結を垣間見ることができる。作曲と作詞のそれぞれの経緯と分析は次の二つの論文を是非読んでみてほしい(いずれもWebで検索すれば読むことができ、わかりやすい)。

坂部由紀子「信時潔作品の二つの「慶應義塾塾歌」:二人の作曲依頼者与謝野寛・小泉信三」、『近代日本研究』、Vol.33、2016、pp.93-130。

山内慶太「慶應義塾塾歌と富田正文:歌詞に込められた意味」、『近代日本研究』、Vol.33、2016、pp.131-62。