最初の疑問

 記憶とその表現を考えると、記憶自体の不具合と記憶の表現の不具合が似たような障害を起こすことが気になり出す。記憶と言葉は想起にどのように関わっているのか、とても面白い課題に見えてくる。
 年寄りはよく忘れると言われるのだが、その忘れ方にも幾つかのパターンがあることに気づく。健忘と言われる物忘れの多くは、記憶が消失する、飛んでしまうというもので、認知症の典型的な症状であり、大量の飲酒でもよく起こる。何があったか憶えていないのである。もう一つ、よく起こるのが言葉を思い出せない場合で、人の名前、ものの名前が出てこないのである。どちらの経験も豊富な私には二つの物忘れには大きな違いがあり、言葉とそれが指示する対象や出来事との間の違いが気になって仕方ないのである。
 「クスノキ(樟、楠)」は公園や歩道に植えられていて、珍しくない樹木である。私はこの「クスノキ」という名前をよく忘れる。よく忘れるためか、よく忘れる名前であることをしっかり憶えていて、クスノキを見るとその名前を確認することが多い。このほぼ習慣化したチェックでも私は相変わらず思い出せない場合がある。「クスノキ」は思い出せなくてもクスノキであることはわかっていて、名前だけがブランクになっているに過ぎないのである。この「クスノキ」健忘に似たものがないか探し出すと、動植物の名前で似たものが結構な数見つかるのである。「トチノキ」、「コアラ」、「アライグマ」、「オオルリ」等、何度も憶えては忘れる例が見つかる。これは人の名前についても同様で、何度も憶えるのだが、また忘れる人は相当数にのぼる。要は、対象の種類に関わらず、ものの名前が容易に忘れられるのだが、そのもの自体は忘れておらず、わかっているのであり、だからこそ、何度も名前を憶えようとするのである。
 一方、対象や出来事そのものを忘れる場合がある。ここには記憶の種類が関わってくるのだが、いわゆるエピソード記憶の健忘である。一連の出来事を忘れることであり、名前を忘れることとはまるで違っている。言葉の問題は背後に退き、一連の出来事からなる物語、世界の中での時間的な区間がすっぽり抜け落ちることである。これが文字通りの記憶の喪失であり、対象の名前の失念とは根本的に異なっている。では、対象や出来事を忘れることと、対象や出来事の名前を忘れることの違いは何なのか。対象や出来事をすっかり忘れていることと、対象や出来事の記憶を不得意な外国語で表現することを比べてみると二つが如何に異なることかはっきりするのではないか。
 記憶について復習しておくと、記憶は陳述記憶(declarative memory)と非陳述記憶に大別される。陳述記憶にはエピソード記憶意味記憶がある。エピソード記憶は「個人が経験した出来事に関する記憶」であり、出来事の内容に加えて、出来事を経験したときのさまざまな付随情報と共に記憶されていることが重要な特徴になっている 。意味記憶は、いわゆる暗記というタイプの記憶のことで、例えば、テスト前に歴史の年号を覚えたり、英単語のスペルや漢字の書き方を覚えるのが意味記憶。言葉の意味や知識、概念に関する記憶が意味記憶である。このような復習から、母国語の習得は意味記憶なのか、反復学習と記憶の関係は何か等、色んな疑問が浮かび上がってくる。
 私の物忘れの経験が陳述記憶の二つにどのように関わるのか、自分自身を使った観察はまだ暫く続きそうである。