哲学の未解決問題(5)

スーパータスク(超越課題、Supertask、自然)
 SFに登場するような大袈裟な名前のスーパータスクとは、「有限の時間間隔の中で無限の操作を行う課題」を指しています。私たちは有限時間内で有限数の操作しか実行できません。それが普通の人間的なタスクであるのに対して、神のごとく無限の操作をするという意味でスーパータスクと呼ばれてきました。
 スーパータスクの最初の例はゼノンのパラドクスです。アキレスが100メートル走るにはまず50メートル走る必要があり、そのためには25メートル走る必要があり、さらにそのためには12.5メートル走らなければならない…これは限りなく続き、結局アキレスは無限の地点を通過しなければゴールには到達できないことになります。つまり、ゴールを目指すアキレスはスーパータスクを実行しなければならず、それはこの世界では不可能であるため、運動は不可能となる、これが運動に関するゼノンのパラドクスのスーパータスク版です。ゼノンのパラドクスの解析学的な解決は運動が極限(limit)概念によって表現可能であることに基づいていました。これは運動する区間のどの分割もゴールではないが、その分割の極限がゴールであることを数学的に示すものであり、ゴールに到達できることをスーパータスクとして示すものでした。極限は連続的な変化の表現に必要ですが、変化が離散的な場合はどうでしょうか。それに対応しているのがSorites(連鎖論法のパラドクス)です。これは、山盛りのピーナッツの皿から一個つまんでもやはり山盛りのままである、n個つまんでも山盛りのままなら、(n+1)個つまんでもやはり山盛りのままである、という伝統的なパラドクスの一つです。ところで、数学的帰納法は次のような公理で、証明の方法として多用されています。

F(0) F(n) → F(n+1)
________________________________________
∀nF(n)

これをSoritesに応用して、F(n)を、ピーナッツn個は山盛りでない、としてみましょう。ピーナッツ1個は山盛りではありません。でも、ピーナッツが数多くあれば、山盛りになります。すると、ある数より多いか少ないかで山盛りかそうでないかが分かれることになります。それを論理式で書けば、次のようになります。

F(0) ⏋∀nF(n)
________________________________________
∃n(n≥0∧F(n)∧⏋F(n+1))

この線引きができないのが曖昧な述語のもつパラドクスです。
これが連続的な場合はどうなるでしょうか。それが、アキレスが区間[0,1]を走る場合です。それは次のように表現できます。F(n)を、アキレスは地点nでゴールしていない、としましょう。スタート時点ではゴールしていないので、F(0)ですが、ゴール時点では⏋F(1)です。Gを部分和の集合で収束条件を満たしているとすると、

F(0) ⏋F(1)
________________________________________
∃G(∀x(x∈G→F(x)∧⏋F(supG))

G=[0,1]のとき、supG=1となり、アキレスはゴールできることになります。これは超限帰納法が成り立つことであり、それはスーパータスクを実行することと同じであり、この物理世界では不可能であり、連鎖論法のパラドクスも生まれてしまいます。スーパータスク、Sorites、帰納法が同じ問題を異なる見方、方法で捉えていることが以上の事からわかる筈です。
 スーパータスクがもたらす哲学的な問題は、数学的な操作と自然の中で起こる出来事の間にどのような関係を想定できるかという問題です。また、自然の数学化が如何にして可能かという原理的な問題とも関連しています。そこで、スーパータスクの典型的な例を幾つか挙げてみましょう。

(問)スーパータスクはどのような意味で自然の数学化に対する反例なのか説明しなさい。(関心のある人は、Gazebrook, T. (2001), Zeno against Mathematical Physics, Journal of the History of Ideas, 62, No.2, 193-210を参照。)

・トムソンのランプ(Thomson’s Lamp
ランプの状態はいつでもオンかオフのいずれかであるとしましょう。時刻が0の時、ランプはオフで、時刻がt = ½の時、オンに変わります。時刻が¾ (= ½ + ¼)の時、ランプはオフに変わり、時刻がt = ⅞ (= ½ + ¼ + ⅛) になると、オンに変わります。この単純な繰り返しを続けたとすると、時刻がt =1の時、ランプはオンかオフのいずれになるでしょうか?
ランプがオンで始まるなら、次は必ずオフになるので、最後の状態がオンではあり得ません。ランプがオフで始まるなら、すぐ次はオンになるので、最後の状態はオフではあり得ません。でも、ランプの状態はオンかオフのいずれかでなければなりません。これは矛盾です(Thomson, J. (1954/55), Tasks and Super-Tasks, Analysis, 15, 1-13.)。

(問)上のトムソンの論証は正しいでしょうか。(トムソンの議論はランプの最後の状態以前の過程に関しては正しいが、最後の状態には適用できないとし、矛盾ではないと批判したのがベナセラフです(Benacerraf, P. (1962), Tasks, Super-tasks, and Modern Eleatics, Journal of Philosophy, LIX, 765-784.)。

・トリストラム・シャンディ(Tristram Shandy)
トリストラム・シャンディはスターン(Laurence Sterne)の小説の主人公です(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman は9巻からなり、1759年に最初の2巻が刊行された。他の7巻も1761年から1767年の間に刊行された)。彼の自伝はとても詳細を極めていて、一日の出来事を叙述するのに1年の年月を費やしてしまうほどです。彼が不死でなければ、自伝は完成しないようにみえます。また、永遠に生きることが許されても、自伝の完成には何の助けにもならないようにみえます。なぜなら、自伝の叙述はますます遅れ、書き残しがますます増えていくようにみえるからです。でも、最後には彼の毎日が記録に残されることになります。

ニュートン力学の非決定論
「物理的な対象の無限の集合はニュートンの運動法則に一致する仕方で自発的に励起できる」という命題はニュートン力学では偽の命題にみえます。でも、その証明は以下の通りです。質量mの質点が1メートルの線上に1, ½, ¼, …と並んでいるとしよう。最初の質点が1秒に1メートルの速度で次の点まで押され、衝突します。衝突で最初の質点の運動量は次の質点に移動し、最初の質点は静止します。次から次と衝突が続き、最後にはすべての質点が静止します。ニュートンの法則は時間に関して不変ですから、時間を逆転しても同じように成立しています。すると、逆転した衝突の過程は時刻t>0で何の原因もなく始まることになります。すなわち、最初の命題が成立します。そして、これは明らかに決定論の反例となります(Laraudogoitia, J. P. (1996), A Beautiful Supertask, Mind, 105, 81-83. Laraudogoitia, J. P. (1997), Classical Particle Dynamics, Indeterminism and a Supertask, British Journal for the Philosophy of Science, 48, 49-54.)。

(問)本文中の三つの例に登場する無限の系列は、物理的な過程なのか、それとも物理的な過程を表現する数学的な過程なのか、自分の考えを述べなさい。
(問)無限の系列や過程は物理的な世界に存在するのかどうか論じなさい。
(問)連続的な系列や過程の存在と微積分の適用可能性の間にはどのような関係があると思いますか。