「最後の審判」と「イケメン偉人空想絵巻」

 「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」と燕市国上寺の「イケメン偉人空想絵巻」がニュースになっています。ここではえちごのニュースを考えてみましょう。
 作品が芸術以外の目的で展示されないことはよくあることで、その代表例はポルノ作品。社会や政治の壁を乗り越え、作品が人々に迎え入れられるなら、それが芸術作品として残ることになります。「表現が不自由」な作品というだけでは余りにジャーナリスティックであり、不自由な発表、展示、陳列にもかかわらず、いつしか自由な鑑賞が可能になるところに芸術が成り立ちます。新しい様式、新しい内容は旧来のパラダイムに反していて、最初は自由に表現すること自体が禁止されています。
 ポルノ作品に敏感なのは倫理や道徳、そして宗教です。教育という観点からポルノ作品をどのように取り締まるか、宗教という観点から宗教画や彫刻像をつくる際の規則をどのように決めるかが長い間議論され、その結果は今でもルールとして存在しています。ルールを無視した表現は禁止され、不自由ということになります。

 西洋芸術は、19世紀より前とそれ以後では大きく異なり、そこにパラダイムシフトがありました。絵画に対する人々の価値観も、作家の考え方も描き方も転換したのです。そのため、例えば19世紀より前の絵画は「伝統的絵画」、19世紀以降の絵画は「近現代絵画」と呼び方も区別されています。
 伝統的絵画は、歴史画(神話、宗教物語、古代史などを描いた絵)と、肖像画、風景画、風俗画、静物画など現実世界を描いたものに分けることができ、それぞれには主題があり、主題に基づいて絵の約束事が決まっていました。宗教画の主題の一つが「受胎告知」。聖母マリアが大天使ガブリエルからイエスを身ごもったことを知らされる場面で、ダ・ヴィンチをはじめ多くの画家が描いています。どの画家の「受胎告知」でも、マリアは天の慈愛を表す赤い服を着て、天の真実を表す青いマントをまとい、マリアの傍には純潔の象徴である白い百合の花が必ず描かれています。画家は自らの工夫を絵に盛り込むとはいえ、決められた描き方や約束を無視して描くことはありませんでした。
 ところが、19世紀以降の「近現代絵画」では、様相は一変します。近現代絵画は伝統的な主題からも、描き方からも、約束事からも自由になり、画家の主観性、内面性、個性や独創性が尊重されるようにシフトするのです。そしてその流れは今日まで続いています。

 システィーナ礼拝堂を飾るミケランジェロの「最後の審判」には、筋骨隆々たるキリストや多くの男が織りなすヌードが洪水のごとく描かれていたようなのです。後に裸体を隠すような布などが描き足されます。でも、キリストだけは元々腰に布を巻いており、他の男たちの布があとから描き足されました。その出典はヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』。ミケランジェロ作品を理解する最大の鍵は、この天才のセクシュアリティにあります。ミケランジェロピエタ像のエロティックな魅力は、その奥に潜むセクシュアリティを解明しないかぎりわかりません。彼が表現する肉体は、動いていても、静止していても、性的なものです。同性愛の資質はミケランジェロのすべての作品に息づいており、その刻印を作品に感じ取ることができます。それを彼は自由と不自由の間で苦悩しながら描き、彫ったのです。

 ドイツの画家クラーナハは敬虔な宗教画を描く一方で、王侯貴族や大商人のパトロンたちにヌード作品を次々と供給しました。クラーナハが描く女性のタイプは同じで、細身で優しくうねるような体つき、華奢な肩、小ぶりでツンとした乳房、ふくらみを帯びたお腹、軽く盛りあがった恥丘等々。さらに、彼はヴィーナスたちをフェティッシュな小道具で飾り立て、フェティシズムを西洋絵画に持ち込んだのです。ポルノ作品と呼んでもよい彼の作品が貴族や商人の間で認められ、当時の一般社会でのタブーを破っていることは今から見ると驚きです。

  「表現の不自由・その後」より前に、越後最古の寺である燕市の国上寺(こくじょうじ)に、寺ゆかりの偉人5人を半裸で描くなどした「イケメン官能絵巻」が設置され、物議を醸してきました。上杉謙信源義経セミヌードで描かれた絵巻が本堂の外壁に設置され、誰でも自由に回廊を歩いて鑑賞することができます。すべて日本画家の木村了子作で、2019年4月19日に一般公開されました。 設置された本堂は燕市文化財に指定されていて、原状変更の許可が必要でした。文化財調査審議会で設置の是非を判断することになり、その結果、市教育委員会は国上寺側が申請した絵巻の設置を不許可としました。これは文化財調査審議会の答申を踏まえて決定され、寺に結果を通知し、壁画の撤去を求めていくことになりました。これがこれまでの経過です。
 ミケランジェロの「最後の審判」と国上寺の「イケメン官能絵巻」を瞥見するだけで、「最後の審判」の表現の方が遥かに生々しく、官能的であることがわかります。システィーナ礼拝堂の「最後の審判」は誰でも自由に見ることができます。展示や陳列の自由、鑑賞の自由があるのです。ポルノか否かもクラーナハの女性像に比べれば、一目瞭然です。クラーナハの女性像が芸術作品として自由に展示や陳列ができるのであれば、国上寺の絵巻も何ら問題はないことになります。