母性や父性:わかったようでわからない区別

 本能的、生得的なのは父性的なものより母性的なもので、マリア様から観音様までどうも宗教の世界でも母性的な方が圧倒的に好まれるようです。となると、獲得的、学習的なのが父性であり、知識や技術は父性的なイメージで受け取られてきたと言いたくなります。でも、このような区別、分類はとても恣意的で、生物学的、心理学的な根拠があるとはとても思えません。女性的と男性的とではなく、母性的と父性的との区別は、現在のLGBTを認める寛容な状況では考え直さなければならない区別というより、無視される区別になっている気がします。つまり、子供にとって父と母の区別は重要ではなく、無視することができ、親であれば十分という訳です。となると、昔からの常識は壊れ、母性の象徴だったマリア像は意義を失ってしまう筈なのですが、赤子が母親を求める事実は生物学的に意味をもち、多くの証拠があります。このように母性は有意味だとしても、父性はヒトの場合も含め、その存在意義がまだきちんと解明されていません。ですから、ヒトの集団内の父親とはどのような役割をもつものなのか、はっきりしていないのです。とはいえ、母親は子供を産み育てるという集団維持に不可欠の役割をほぼ独占していることは確かなことです。それに比べると、父親の役割は浮き草のように思われて仕方ありません。ですから、オスの男性の役割はある程度はっきりしていても、社会や家族の中の父親の役割は定かでないことになります。
 ジェンダーと性の違いが、女性と母性の違いなのかと言うと、やはり違います。生物学的な性と社会的な性の違いによって、女と母の違いを説明し切ることはできません。母は確かに社会的な要素をふんだんに含みますが、それは女も変わりません。つまり、生物学的にも社会的にも、女と母は違っています。当然、父と男も違います。それは役割の違いで、文脈に依存して変わるのです。古代ギリシャ時代の女、母の役割は、現在の日本の女、母の役割と同じであるはずがありません。
 男と女の境界がぼんやりしてきて、男でも女でもない人が存在するようになっても、母の役割と父の役割は男と女の役割とは違っていて、それとは独立にあっても一向に構わない筈です。ジェンダーとは人間社会での(セックスとしての)男と女の役割のことです。人はそれ以外に母と父の役割をもつことができます。こちらは多分に獲得的、自ら選ぶことができる役割であり、その一部は自分で変えることさえできます。男女のジェンダーより遥かに融通無碍で自由度が高いと言えそうです。
 セックスが二つある両性生殖でのオスとメスは生物学的な機能(=生殖における役割)だけで捉えることができ、その意味では純粋に生物学的概念と割り切ることができます。ここで前提されている生物集団は単に生殖するメンバーの範囲を決める程度の役割しか与えられておらず、集団のもつ効果や能力は極めて一般的なものに過ぎません。ヒトは集団生活し、その中で繁殖を繰り返し、社会をつくってきました。ヒトに特有の社会構造が生まれ、人社会が誕生します。その人社会の核になってきたのが家族であり、家族の核は夫婦、つまり生殖する男女でした。オスとメスは人社会の中で男と女として捉え直され、その男と女が夫婦をつくり、子供を産み育てるという仕組みが家族の基本となり、それが継続的に繰り返され、系統的に社会が維持されてきました。両性生殖の生物学的仕組みは人社会という集団の中で文脈的、状況的、相対的に解釈、翻訳されて私たちの社会構造の基礎となってきました。オスとメスの両性生殖の二つの要素は人社会の中で巧みに解釈されて、それぞれの社会の保存維持に巧みに組みこまれてきたのです。どの社会をも横断してジェンダー概念が使われるのも、セックスの解釈がどの社会でも行われ、脚色されたセックスとしてジェンダーが必要だったからです。
 家族も人社会の次の核となっているのですが、それは血縁関係の基本であるからです。家族や血縁関係を眺めると、親子、父母、兄弟、姉妹、祖父母、甥や姪、親戚といった関係が浮かんできます。男と女と並んで、どれも夫婦に劣らず重要な関係です。でも、どの関係にもオスとメス、男と女が横たわっていて、これら血縁類語には共通して男女の違いが横たわっていることを忘れてはなりません。人社会での男女の個々の役割と共に、血縁分脈での様々な役割が上記の語彙で表現されています。特に、親子、父母は血縁分脈のスタートラインにある語彙なのです。
 これまでのことをまとめるならば、セックス、ジェンダー、ペアレントという項目が区別でき、雌雄、男女、親(父母)がそれぞれの基本要素になっているのです。