ブッダの遺言:自帰依と法帰依

 『マハー・パリニッバーナ経』(「ブッダ最後の旅」)はブッダの死(=涅槃)を伝える原始仏教経典。80才になったブッダは肉体の衰えを感じ、侍者アーナンダと共に故郷に向けて最後の旅に出る。この経典はブッダの最晩年の姿と説法を伝えている。
 ブッダはヴェーサーリー近辺の出家修行者を集め、遺言ともとれる説法をする。そこでブッダは修行僧たちに告げた。「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう。もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい。久しからずして修行完成者は亡くなるだろう」と。このように説いた後で、さらに述べた。「わが齢は熟した。わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて、わたしは行くだろう。わたしは自己に帰依することをなし遂げた。汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒めをたもて。その思いをよく定め、おのが心をしっかりと守れ。この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみを終滅するであろう」と。
  上の説法中で注目すべきは 「わたしは自己に帰依することをなし遂げた」という表現である。この表現にブッダの教えの本質がある。ブッダ最晩年の姿を伝えるこの経典は重要なことを四つ述べている。それらは次のものである。
1.ブッダの教えに秘密の教えはない。  
2.ブッダには「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」という考えがない。
3.この世で自らを島とし自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法を拠り所して、他のものを拠り所とせずにあれ。
4.心だけでなく諸々の事象を観察し、熱心によく気をつけ念じ、貪欲と憂いを除くべきである。
1はブッダの教えには秘密の教えがないことを述べている。大乗仏教では秘密の教えを強調し始め、後期大乗仏教密教はその秘密の教えである。そこにはブッダが禁止した呪術やマントラが麗々しく取り入れられている。2のブッダの言葉はブッダが無我の教えを完全に自分のものにしていたことを示している。普通なら新興宗教の教祖ブッダは死ぬ前にその教団を発展させ、保持することに腐心する。後継者を指名したり、有力な弟子たちに教団の未来を託そうとする。しかし、この経典を読む限り、ブッダには自分が創設した教団に対する我執や我欲の思いがない。この「無我の思想」は仏教の核心である。3の「この世で自らを島とし自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法を拠り所として、他のものを拠り所とせずにあれ。」という言葉は「自帰依」、「法帰依」の教えとして有名。「自帰依」、「法帰依」の教えはブッダの教えの正に核心をなす。ここには神や諸仏への信仰は何も説かれていない。4でブッダは「心をはじめ諸々の事象について熱心に、 よく気をつけて観察し、貪欲と憂いを除くべきだ。」と言っている。客観的観察の姿勢は実証的な科学者の姿勢である。キリスト教イスラム教などでは自己への帰依は説かれず、唯一神への絶対的な帰依を説く。これと反対に、ブッダは神などの超越者に帰依することではなく、自己と法(理法=真理)に帰依する道を説いている。
 ブッダは最後の説教で「法帰依」と「自帰依」を説いた。人間は弱い。そんな弱い人間よりも全知全能の神や阿弥陀如来に帰依する方が得策。実際、ブッダの死後ブッダの「自帰依」の教えは変容し、ついには放棄される。ブッダの死後500年経つと、仏像が作られ、ブッダは神に格上げされ、崇拝と信仰の対象に祭り上げられる。仏教徒ブッダの悟りと教えの真髄を忘れ、弱い人間ブッダよりも神として祭り上げた如来(=ブッダ)や菩薩を崇拝し、帰依する道を選ぶ。大乗仏教の成立によって、「法帰依」と「自帰依」の道は忘れ去られた。彼らは膨大な大乗経典を創作し、諸仏や諸菩薩信仰の道をひたすらに進んで行く。大乗経典には阿弥陀如来薬師如来大日如来、観世音菩薩、弥勒菩薩文殊菩薩など多くの仏や菩薩が登場する。しかし、大乗経典に登場する諸仏・諸菩薩は原始仏典には存在しない創作である。
 ブッダは教団の指導者という意識を持たなかった。実際に教団の創始者であったが、教団が自分のものであるという意識はなかった。教団への執着はなかったから、 死後の教団維持についてもブッダには執着心はなかった。ブッダ以降の仏教教団には、教団の実質的な指導者はいたかも知れないが、 代々の指導者を組織的に立てることはなかった。

 アーナンダの「あなたが亡くなられたら、私たちは誰を拠り所にすればいいのか」という問いに対し、仏教とは他人を拠り所にするのではなく、自らを拠り所とし、そして法を拠り所とし、他のものを拠り所としてはいけないとブッダは教える。彼は自分と法を生きる拠り所、支え、土台として自立して生きることを説いている。
 例えば、次のようなパンフレットの文言は心地よく耳に響くのだが、本当なのだろうか。「浄土真宗阿弥陀仏の本願、念仏を支えとして、自立して生きることを説く。法帰依(阿弥陀仏の救い)だけを強調し、自帰依を忘れると、自らの生活と乖離してしまう。自分を抜きにして法を聞いても生きる力にならない。他力本願とは、阿弥陀仏が「私が必ずあなたに生きる支え、土台、大地となるから、自らの足で立ち上がって力いっぱい生きよ」と生きる自立を主張している。」
 このような解釈は自帰依と法帰依の正しい解釈なのだろうか。自帰依とは、何か特別の自己になるように努力することを勧めているのではなく、「自己こそが頼りとなる基準である」ということを示しているだけではないのか。言葉に依存するよりも、自分自身および自分自身に起こることの方が重要だとブッダは考える。それを頼りとして歩め、ということであり、それが「自帰依 」に託されている。                                           
 法帰依の「法」は「ブッダによって説かれた教え」を指すのか。ブッダの教えは私たちを導いてはくれるが、真理は自ら感得しなければならない。言語化されたものをそれだけで理解し、その点についてだけわかっても、そこにはおのずと限界がある。言語化されたものを絶対視し、言語に頼ってしまうからである。法は万人に通じる理法あるいは倫理的規範、道徳律とも解釈される。ブッダが体験した非日常的次元の世界に対して、彼は通常の言語表現を用いて、それをダンマと名づけた。それは純粋に個人的な体験である。だが、この体験は「不死」とか「涅槃」と表現されるすばらしい世界なのである。
 「無我」と実践主体の存在は文字通りには矛盾するが、矛盾は言葉の上だけであって、実際の場面では、事実としてそういうことが起こっている。宗教的世界とはそのような「非日常的次元の世界」である。自帰依、法帰依は、すべての人が日常的次元を超えて、非日常的な次元における自己とその世界に目覚めること、つまり「すべての人がブッダになる」ための手続きであり、後に自力、他力に分類されることになり、対立するかのように歪曲されていくのである。