筋目と興譲

 上杉謙信は「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ、 ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す(『白河風土記』)」と書き、私利私欲で合戦はしない、ただ、道理をもって誰にでも力を貸すと表明している。筋目とは道理であり、大義、正義、仁義、信義と言い換えることもできるだろう。謙信に忖度して言えば、彼の戦いは領土的野心も私利私欲もなく、筋目の正しい、そこに「義」を認めれば誰であれ味方する、というものだった。謙信に批判的に言えば、それは現代的な「正義と博愛」では決してなく、むしろ「義侠と偏愛」の正当化だった。
 筋目とは道理でなく、筋目正しい家柄のようにも使われる。つまり、筋目は合理的な理屈だけでなく、歴史的に由緒ある系統でもある。謙信はその「筋目」を強調する。彼の戦いの筋目は、天皇や幕府の王法阿弥陀信仰の仏法の回復という信念である。その「筋目」が「義」に置き換えられて、謙信は「義の武将」と呼ばれてきた。しかし、謙信自らは「義」という言葉は使わず、書状や願文において、「筋目」を使った。
 謙信は曹洞宗林泉寺で学問の修行を始める。そこで禅問答を通じて、有名な山門の「第一義」を残すことになる。その後の謙信は真言宗に関心をもち高野山を訪れ、阿弥陀信仰、浄土信仰をもつようになる。高野山の僧清胤が越後に下るのは、天正二年(1574)十二月であり、この時に謙信は法体となる。さらに謙信は伝法灌頂まで遂げて、ついには法印となる。『金光明最勝王経』は、巻五「四天王観察人天品第十一」、巻六「四天王護国品第十二」で四天王の功徳を述べ、この経を保つ国王があれば、四天王がその国王を擁護し、その国土から怨敵の災禍を消滅させると説く。また「守筋目」を誓った弥彦山に祀られる弥彦第三王子草苅明神の本地仏毘沙門天である。この毘沙門天像は弥彦山麓の宝光院に現存する。ここに北国の武将謙信が王法・仏法を守護する北方の毘沙門天を奉じる所以を見出すことができる。
 謙信の遺体が移された米沢に話を移そう。「興譲」は「譲(ゆずる)を興(おこす)」ことであり、細井平洲の教えの根幹にある考えである。人を人として敬い、譲り合う生き方を徹底することによって、人間関係の良好な地域社会を築くというのが興譲思想。これは利他主義の一形態であり、個人主義や、人を所有し、支配し、搾取する社会の対極にある社会思想でもある。「譲」という漢字にはもう一つ意味があり、それが「責譲(せきじょう)」。誤りや歪みがあったときには、そに対して徹底的に相手の責任を問うことで、「興譲」は悪を許さないという信念もある。この平洲の考えを受け継ぎ、具体的な政策をつくって、成功したのが上杉鷹山である。
 このように見てくると、謙信の戦時の「筋目」、平洲や鷹山の平時の「興譲」が上杉一族の「義」の具体的表現、活動指針となっていたことがわかる。さらにそこには時代の違いも見て取れる。「義」という中国由来の概念が「節目」、「興譲」へと歴史的に展開していったことを垣間見ることができる。