人の都合と自然の都合

 令和に入って大雨と冷夏が続く。偏西風が大きく蛇行しているためだと気象予報士は言うのだが、なぜ大きく蛇行しているかは述べず、地球温暖化のためだと結論する。

 自然の都合が脚色されることなく反映された知識やそれを表現する用語と、人の都合がもっぱら反映された知恵や習慣とそれを表現する語彙との二つがミックスされた世界に私たちは住んでいる。自然の都合だけを考えて世界を知り、理解しようとするのが科学者だとすれば、科学は単純明快な知的活動ということになるのだが、人はその清き流れだけの世界ではなく、清獨併せ呑む生活世界の方が好きなようなのである。つまり、人は自然の都合より自らの都合を優先して生活を持続させている。そして、それには当然ながら理由がある。
 その理由を知るために錯視図形を考えてみよう。私たちにはらせん状に見えるが、実際は同心円の集まりだという錯視図形を挙げてみる(画像参照)。紫木蓮と白木蓮は花の色が違う木蓮であり、山吹の黄色の花が白になったのが白山吹としか見えない私たちの感覚経験はらせん状に見えてしまう視覚像と似たようなものなのである。そのような感覚経験を主に世界を捉えれば、それが生活世界とその経験ということになる。それゆえ、感覚は私たちを欺くということになるとまとめられ、それが経験主義への批判として述べられてきた。だが、それはやはり反経験主義者のプラトンらの傲慢とも思える偏見であり、私たちの感覚が欺かれるにはそれなりの理由があることを忘れてはならないと経験主義者は反論する。私たちは自らの生存のために欺かれるべくして欺かれるのである。合理的な欺瞞こそが知覚経験のもつ大きな特徴であり、それゆえ、私たちの知覚経験や感覚質は幾何学では説明できないものなのである。

 人の都合は本能と学習の二つによってつくられている。だから、既に部分的には人の都合は自然の都合の一部であることは明らかである。人の都合のすべてが自然の都合か、あるいはその正反対に、人の都合はすべて反自然的なものかは、長い間熾烈な議論が戦わされてきた。
 私たちの知覚装置と知覚経験は生得的なものと獲得的な学習の両方によって働いている。人の都合は生得的な装置の使い方を習得することによって実現する。
 都合は自然であれ、人であれ、歴史を通じて熟成され、変化してきたものである。自然にあるものにはどれにも都合があると考えて構わない。「どんな存在も歴史をもつ」という歴史主義を今更強調しても時代遅れに響くのだが、変化は歴史の別名だと考えてよいだろう。

 人の都合は自然の都合に抵触せず、自然の都合の持続に反しない限り、同じように持続可能である。そのような意味において、人の都合は自然の都合なのである。では、今の私たちの都合はどれも自然の都合になっているだろうか。私たちの都合は反自然の都合になっていないのだろうか。このように問うと、いささか自信がなくなり、相当数の人の都合は反自然的だと言わざるを得ない。そのような都合が長期にわたって蓄積されるなら、ついには自然の都合を越えて自然破壊をもたらすことになる。例えば、「地球温暖化」は自然の都合に合致せず、人の都合によってもたらされたものである。
*your convenience, nature's convenience