榊原政令の功績

 上越市では今でも上杉謙信は地元の大英雄であり、比類なき人物ということになっている。高田藩は榊原家の藩として明治を迎えることになった。榊原藩の藩政は堅実で、高田藩は豊かな藩に生まれ変わっていた。妙高絡みでは赤倉温泉の開発があり、それは日本初の第三セクター方式の温泉開発だった。もっと榊原一族は重視されてしかるべきなのだが、謙信公に比べると、軽視されてきたように思えるのは私だけだろうか。愚痴はこれくらいにして、戦時の英雄謙信に対し、平時の英雄政令を見直してみよう。
 榊原家の分家で、旗本1000石の榊原勝治の次男として生まれたのが政岑(まさみね)。享保16(1731)年に家督を継いでいた兄が亡くなり、1000石の家を継ぐ。その翌年、本家の榊原家の榊原政祐(まさすけ)に子供がなく、その養子となり、榊原の宗家を継ぐ。宗家は徳川四天王の一人榊原康政、徳川譜代の家臣の中でも筆頭格!こうして、政岑は、播磨姫路藩15万石の第3代藩主となる。享保17(1732)年、政岑19歳の時。正室が女の子を出産後まもなく、亡くなる。お抱えの能楽者の一人が、気分転換に政岑を吉原に誘い、そこで高尾太夫に恋をしてしまう。高尾太夫とは江戸吉原で最も有名な源氏名。京島原遊廓の吉野太夫、大坂新町遊廓の夕霧太夫と並んで、寛永三名妓の一人で、吉原三浦屋の大名跡。「高尾」という源氏名は歴代続いたと言われるが、7代目榊原高尾は絶世の美女。その彼女の心を開き、身請けする。寛保元(1741)年、政岑29歳の春のこと。だが、高尾の身請けを将軍吉宗に咎められ、寛保元(1741)年10月に隠居のうえ蟄居。越後高田への転封となる。高田での政岑は開墾や灌漑などの農地改革を熱心に行うが、わずか2年後の寛保3(1743)年31歳で没。政岑とともに高田へ来た高尾は、夫の死後に出家。
 榊原政令(まさのり)は1776(安永5)年に二代目政敦の長子として生まれ、1810(文化7)年35歳で家督を継いだ。藩政に尽くした名君である。藩士への産綬事業推奨、領内赤倉山の温泉を掘削し赤倉温泉を開き、藩士に果樹の木の植樹を推進するなど多方面にわたる改革や産業の育成を行い、藩財政を立て直した。また、陸奥国の飛び地分9万石余のうち5万石余を高田城隣接地に付け替えられるという幸運もあり、藩財政は安定した。
 政令は思い切った人材登用、倹約令の発布、新田開発、用水の開鑿、内職の奨励、牧場の経営、温泉開発までやった。例えば倹約令なども徹底しており、食事はどんな場合も一汁一菜。また、「武士がそろばんをはじいて何が悪い」と藩士たちにも盛んに内職を勧め、それまでは隠れて内職をしていた下級藩士たちは、堂々と内職をするようになった。数年後には藩士たちの作った曲物、竹籠、凧、盆提灯などが高田の特産品となり、信州や関東まで売り出された(『武士の家計簿加賀藩御算用者」の幕末維新』(磯田道史、2003、新潮新書)を遥かに超える)。
 さて、赤倉温泉であるが、1816年に開かれた。地元の庄屋が地獄谷の温泉を麓に引いて湯治場を作りたいと高田藩に願い出る。高田藩の事業として開発が始められ、温泉奉行を置く藩営温泉となった。これは第3セクターによる公営事業である。妙高山を領地としていた関山神社の別当宝蔵院に温泉買い入れ金800両、関温泉への迷惑料300両を支払って開発が始まった。2年間の開発経費3120両、温泉宿などの建設経費2161両で、当時としては大開発事業であった。
 政令財政再建によって榊原家は持ち直し、天明天保の飢饉の際には一人の餓死者も出さなかった。さらに、兵法に洋式を取り入れて大砲を鋳造し、ペリー来航の際、その大砲を幕府に寄進している。1861(文久元)年86歳の高齢で死去。
(大手町にある榊神社は「榊原康政・3代忠次・11代政令・14代政敬」が顕彰され、まつられている。)