良寛とフレディ

 良寛が人々の注目を浴びだすのは、大正期の中ごろ以降です。それには相馬御風の一連の著作が大きな役割を果たしました。糸魚川出身の御風は早稲田大学で新潟出身の会津八一と同期で、坪内逍遙島村抱月らに薫陶を受け、その良寛論は良寛を生き返らせ、自我に目覚めた人たちに苦悩の中の良寛の生き方を教示することになりました。

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 良寛は越後出雲崎の名主の長子に生まれ、家を捨て出家します。禅の悟りを得て俗世を捨て、無私無欲のやさしさ、清らかさが、周りの人々の共感を呼ぶことになります。良寛の書は、ここにあげた「天上大風」(子供たちの凧のために書いたもの)のように童心にあふれたものばかりではありません。若いころから王羲之小野道風を本格的に学び、草書にも熟達していました。この書のどの文字も単純です。天の字だけが他より大きく、しかも第一画と第二画の間がずいぶん離れています。風も中の虫が極端に左に寄ってしまっています。落款の「良寛書」の位置も形もよくありません。各文字は稚拙に見え、何とも具合がよくありません。それでも、全体として収まってしまっているのが不思議です。何より、このほのぼのとした素朴さは意図したものではありません。それが私たちを魅了するのです。

 主人公は葉っぱのフレディ。春に大きな楓の木の、太い枝に生まれた五つの葉っぱの一枚。そして、夏にはりっぱな身体に成長しました。当然木の葉っぱフレディには仲間の葉っぱがたくさんいます。フレディは、みんな自分と同じ形をしていると思っていましたが、皆違っていることに気づくのです。これは、人間と同じで、どんな生き物にも共通のことです。
 フレディの親友はダニエル。ダニエルはいちばん大きく、考えることが大好きで、物知り。哲学者ダニエルはフレディにいろんなことを教えてくれました。フレディが葉っぱであること、地面の下に根を張っているから木が倒れないこと、月や太陽や星が秩序正しく運動していること、季節がめぐること…そういった自然の法則から、夏の暑い時には葉っぱ同士で木かげを作る人間が喜ぶこと、それも葉っぱの仕事であること等々。
 フレディは自分が葉っぱに生まれたことを喜びますが、季節は移り、寒い霜の季節が訪れます。緑色だった葉っぱは紅葉します。フレディは赤と青と金色の三色に変わりました。他の仲間たちもそれぞれ、違う色に変化。同じ木の葉っぱであるにもかかわらず、全部が違う色に変化します。訝るフレディに、ダニエルは生まれたときは同じ色でも、皆違う経験をするから、違う色に変化することを教えるのです。
 そして冬の到来とともに、葉っぱたちは冷たい風に吹き飛ばされ、つぎつぎと落下。おびえる葉っぱたち。ダニエルはみんなが今の木から「引っ越す」ことをフレディに教えます。やがて木に残った葉っぱはフレディとダニエルだけになります。フレディはダニエルが言っていた「引っ越す」ということが「死ぬ」ことを意味するのだと気づくのです。
 「死」を恐れるフレディに対して、ダニエルは、未経験のことは不安になるもので、「無常(すべては変化するもの)」を説きます。死も逃れえぬ変化の一つであることを教えます。「ぼくは生まれてきてよかったのだろうか」と尋ねるフレディに、ダニエルは深くうなずき、やがて夕暮れに枝から離れていきました。
 ひとりぼっちになってしまったフレディは、雪の朝、風にのって枝を離れ、しばらく空中を舞ったあと、地面に舞い降りていきます。初めて木全体の姿を目にしたフレディはダニエルが言っていたい「生命」の永遠を思い出します。そして静かに目を閉じ、ねむりに入っていきました。そして。季節は巡り、また春がやってきます。
(レオ・バスカーリア(Leo Buscaglia、1924-1998)絵本『葉っぱのフレディ-いのちの歌-』絵島田光雄、訳みらいなな、童話屋)

 「無常」は仏教の基本的な教えで、一切のものはことごとく生滅してとどまることなく、移り変わり続けます。常がない。あらゆるものが生まれたら滅し、生滅を倦むことなく繰り返していきます。この仏教の教えは文学に見事に表現されてきました。日本人は無常観を自然に重ねて感じてきました。仏教は、自然の春、夏、秋、冬に重ねて「生、老、病、死」を説いてきました。自然の移ろいと人生とを重ね合わせ、融合させながら理解してきました。
 良寛の俳句に  
  裏を見せ 表を見せて 散る紅葉
があります。虚飾を捨て、裏も表も見せる。それを紅葉にたとえて、葉は綺麗な表だけ見せているのではなくて、裏表全部を見せて散るのだ、と詠うのです。
 フレディと良寛の無常観はとてもよく似ていて、共通した部分を多くもっています。