良寛の転向、あるいは禅宗から詩歌へ

 良寛の生家は代々神職かつ村落の長。彼は経済的にも恵まれた家に育ち、そして、十分過ぎる教育を受け、抜群の学才を発揮した。18歳で名主見習いとなるが、生来の人の良さが仇となり、うまくいかない。何が青春の蹉跌になったか定かではないが、地元の曹洞宗光照寺で修行を始める。22歳で光照寺住職の師である国仙に従って、備中の国(岡山県)の円通寺に入り、国仙和尚のもとで修業。曹洞宗道元の開いた禅宗の宗派で、最も戒律と修行が厳しかった。
 良寛道元に傾倒していて、禅の思想こそが仏教の思想の中で最も核心のものであり、その禅の思想の中で最も根本的なのは道元の開いた禅だと考えていた。道元の主著『正法眼蔵』を読み、それに心奪われていた。その道元も厳しい正統意識を持っていて、釈迦に始まり、中国に伝来した仏教の正統性を継いでいるのは自分以外にはないと自負していた。仏教本来の思想を保持しているのは、自分の師匠である天童山の和尚であり、その印可を許されたのは自分であるから、自分こそが正統的にそれを守っていると考えるのが道元であり、それが彼の『正法眼蔵』の骨格になっている。
 釈迦以前の原始インド思想では、眼に見えるものを微細にしていくと、ついには眼に見えなくなり、それがいわば霊魂、精神であると考えられた。霊魂が人間の肉体に宿っていて、その肉体が失われるとると、眼に見えない霊魂はそこから出て、他の肉体に宿る。他の肉体に繰り返し宿っていき、人間の霊魂はいつまでも続いていく。それは仏教以前のインド思想の中にあり、中国思想でも荘子老子のようにインドに近い南中国の思想は原始インド思想とよく似ている。
 道元によれば、仏教の方が老荘より永続的な時間や生命の時間について詳しく、荘子老子の思想には、肉体を修練することによって、天地に合一し、永続的な生命に合一するような考え方もない。ところが、仏教以前のインド思想、例えばヨーガ思想には肉体的な修練によって、天地と合一することができる、あるいは、眼に見えない自然のエッセンスと合一することができるという考え方がある。老荘思想には肉体を修練するという観点が何もなく、それが仏教と老荘思想との大きな違い。
 肉体を修練し、天地自然に合一する、つまり、解脱することが釈迦の目的。釈迦が新しい問いのタイプとして提出したのが、現世の悩みからどうやって脱却できるかということ。この問いはそれまでなかった新しいタイプの問いで、釈迦の解答は、人は肉体的な修練を重ねることによって無機物と同じようになれるということ。
 釈迦が見事だったのは、現世的な悩みという概念を前面に出し、原始インド思想によってその解決を示したこと。自分を天地と合一させる、あるいは、生死を脱却するという問題は、インド思想で考えられてきたもの。釈迦の意義は、そこに「現世」という概念を導入して、その解決にインド思想を巧みに使ったことにある。
 良寛は33歳で国仙から印可を受ける。それで良寛がわかったことは、道元の厳しさ。道元が『正法眼蔵』のなかで厳しく禁じているのは、文学、そして老荘思想。だが、良寛は詩や文学への関心を棄て去ることができず、それに惹かれ、傾いていく。道元の『正法眼蔵』と詩歌とは両立しないと思った良寛は詩歌の方を選んだのではないか。これが良寛の二番目の躓きだった。最初の青春の躓きで禅僧になり、二番目の大人の躓きで禅から離れるのである。
 良寛は師の国仙が亡くなったのを機に34歳で全国行脚を始めた。38歳の時に実父が亡くなり、越後へ帰り、40歳で国上山(現燕市の山)の五合庵に入る。59歳で、国上山麓にある乙子神社の草庵や島崎村の木村屋敷内の離れへと居場所を移し、座禅や子供たちとのふれあいに明け暮れ、70歳で貞心尼と出逢い、74歳の生涯を閉じた。当時、越後は浄土真宗が広く浸透していた。良寛曹洞宗の禅僧だったが、村人に南無阿弥陀仏を揮毫して欲しいと頼まれれば、それに応じるなど、宗派にこだわらなかった。詩歌や学問を通して良寛と交流を深めた人物には、貞心尼、儒学者亀田鵬斎国学者の大村光枝などがいる。
 良寛は自然が好きで、彼が自然が好きな意味は、禅宗のコンテキストで自然と合一するのが好きというのではなくて、文字通りに眼前の山河や草木が愛おしいという意味である。良寛永平寺の正統な思想と正統な衣鉢を継ぐという考えを棄て、郷里へ帰る。郷里へ帰ってからの良寛は詩人としての良寛になる。良寛はそこでも座禅し、仏教書を読んでいるが、それは修行のためではない。曹洞宗の正統な後継者として、仏教の最も根本的な部分の衣鉢を継ぐという目的は既にない。修行の座禅ではなく、荘子老子と同じように、天地自然と一緒になって遊ぶ座禅だった。
 親鸞道元はほぼ同じ年代で、一茶と良寛が同じ時期に生きたのに妙にダブるのである。親鸞道元の比較研究はこれまで数多くあるが、今の私たちが知りたいのは、良寛道元の『正法眼蔵』ではなく、親鸞の『教行心証』、あるいは後の『歎異抄』に強く惹かれていたなら、彼はどんな人生を歩んだろうかという問いである。良寛の時代の浄土真宗親鸞の時代と違って幕府の体制に組み込まれ、宗教としての迫力を失っていた。その上、他力本願の宗教には修行という概念がそぐわない。それでも彼が浄土真宗を選んでいたなら、彼のもう一つの望みである詩歌の世界とも対立することが少なかったと思われる。世俗の家に生まれた良寛には出家する強い決断が必要で、そのためには余程の魅力が宗教にいなければならない。道元曹洞宗は修行に厳しく、本来の仏教を継ぐものという自負があり、良寛もそれに惹かれたのだと思われる。
 禅宗カトリック神学は形而上学という学問を重視するが、学問は本来自力で行うもので、何かを自ら説明することを目的にしている。一方、浄土真宗などの鎌倉新仏教は学問ではなく宗教実践を重視し、文学は本来他力でなされ、何かを表現することを目的にしている。良寛は自力の曹洞宗から他力の浄土真宗へと転向したのではなく、曹洞宗の僧としての責務から解放され、無宗派になっただけなのである。彼には宗教の代わりが文学で、文学がそれまでの彼の生活、その後の生活を支える枠組みになった。和歌や俳句は貞信尼と良寛を結びつけただけでなく、荘子の思想を背景に自然や日常生活の表現に活用されていく。そして、詩歌という文学は現象的には(そして本来的にも)他力の姿をもっていた。
 私は宗教学者でも文学史家でもない。だから、これまで私が自分の想像を勝手に述べてきたことをそのまま信じるのは危険極まりないのだが、述べた限りでは誤っていないと信じている。