メノンのパラドクスの本性

 哲学者の中の哲学者と呼ばれるのがプラトンですが、弟子のアリストテレスが科学者と称されるのとは好対照です。そのプラトンの科学観はピタゴラスと同じように大変神秘的なものです。感覚や知覚でわかる世界は誤りばかりで、理性で知られる世界しか信頼できないと彼は達観しました。これは感性的なもの(観察や実験)の蔑視、理性的なもの(論理や数学)の偏愛を意味しています。現象の背後にある幾何学的構造に魅了された彼は天文学を好み、不規則に見える「惑」星の動きを完全な運動、つまり、円運動の組合せによって説明しようとしました。
その彼がどのように正しい定義に到達するかを鮮明に表現したのがメノンのパラドクスです。

1 あなたが探しているものを知っているなら、探すことは必要ない。
2 あなたが探しているものを知らないなら、探すことはできない。
3 それゆえ、あなたが探すことは必要ないか、できないかである。

この結論3が述べているのは、あなたは知的な探求とは無縁であり、「正しいことを知る」ことは徒労に終わるしかないということです。知識と私たち人間の絆は結べません。こんな簡単な推論によって、知的探求が打ち砕かれるというのは信じられないことです。
 忘れてはならないことですが、この推論が妥当であるためには「あなたが探しているものを知る」ことが1と2とで同じ意味で使われていなければなりません。本当に同じ意味で使われているかどうかを確かめるために、次の二つの文を考えてみよう。

A あなたは答えたい質問を知っている。
B あなたはその質問の答えを知っている。

 Aの意味では2は真ですが、1は偽です。ところが、Bの意味では1が真で、2は偽になります。ですから、二つの言明の「知る」を同じ意味で使うなら、1と2が両方とも真であることはないのです。また、Bの意味での1とAの意味での2からは、「知る」の意味が異なるのですから、何の結論も出てきません。質問が何か知っていることとその質問の答えが何かを知っていることが違うことは冷静な人ならすぐに納得できる、至極当たり前のことです。
 これでメノンのパラドクスは単なるレトリックに過ぎないと一蹴するのは簡単ですが、AとBの二つの知り方が本当に違う知り方なのか問い直すと、その違いは実は曖昧極まりないことが明らかになってきます。私たちは平気で「知ったかぶり」ます。私たちは言葉の使い方を知っているだけなのに、その言葉の意味を知っていると思い込んだり、他人には意味を知っていると嘘をついたりします。実際にはAとBの区別を台無しにしているのは私たち自身なのです。知ったかぶりこそ私たちが知識を使う最も巧妙なやり方なのです。「10%知っている」、「90%知っている」の「知っている」は随分と異なる心的状態を指しているのですが、知ったかぶることによって「知っている」と言い張ることも、正直に「知らない」と白状することも、私たちは融通無碍、縦横無人、自由自在に言葉を使うことができてしまうのです。私たちは「知る」という言葉をしたたかに使いこなし、真偽を意図的にコントロールできるのです。
 知ったかぶりを乗り越えて真剣に知ることを求めるなら、知れば知るほどわからなくなるという(メノンのパラドクスの)本当の姿が見えてくるのではないでしょうか。世界の出来事について、それを「知り切る」と言い張るためには、どこかで「知ったかぶる」しかないのです。「知ろうとすればするほど、知り尽すことができなくなる」という無限遡及のパラドクスに近い状況こそ、実は知識の本性を表しているのです。トートロジー以外は、知ろうとすれば必ず前提や仮定が必要になり、それらが真である限りで、知ることができるということになります。何かが真だという仮定のもとでの知識は相対的な知識であり、それが経験世界の知識と言うことになります。
 「問いを知る、問いの一部を知る、問いの答えを知る、問いの答えの一部を知る」といった表現は問いに関する量的な知り方の存在を表しているように見えます。同じように、「知っているかどうか自信がない、知ったかぶる、」も心的な状態を表現していて、どれも異なる心的状態を指しています。でも、それらの差異はをすべて台無しにしてしまうのが嘘をつくことです。そして、それに近いのが知ったかぶることなのです。知ったふりをする、わかったと嘘をつく、それらは知ったかぶるより遥かに直接的に心の状態を表現していますが、それが本当かどうかを調べるのはとても厄介なのです。「知る」ことと「振舞う」こととの違いは誰も認めるのですが、知ることを振る舞うことによって表現できるかと言われると、どんな名優でも難題となるのではないでしょうか。知ったかぶることの演技の方がずっと簡単そうに思われます。
 こうして、知ることも知ったかぶることも、両方とも厄介な心的動詞であることがわかります。知り切ることができる、仮定なしに知ることができれば、「知ったかぶる」は何かが欠けた知ることだと納得できるのですが、知り切ることができない場合、「知ったかぶる」は私たちの知識の本性を表していると言えそうです。