私たちには故郷回帰本能があるのか

 サケには母川回帰本能がある。お盆の帰省ラッシュは今でも「風物詩」だが、高速道路を走る車列はサケの遡上に似ていなくもない。スシ詰めの新幹線は少なくなったが、長蛇渋滞の高速道路は相変わらずである。そんな思いまでして人々が帰省するのは何故か。それは、人には「帰省本能」があるからなのだろうか。もしこの仮説が正しいなら、これを利用しない手はない。
 その前に、「帰省本能」は「帰巣本能」の間違いではないのか。確かにその通りで、帰省は本能的な行動ではない。それに対して、帰巣本能は本能で、ハトの帰巣本能は特に有名であり、それを利用したのがハトのレースである。残念ながら、帰省は習慣に過ぎなく、帰省しない人も多い。
 もし人にサケのような回帰本能があり、子供たちは必ず生まれた故郷で子孫を産むのであれば、現在問題になっている故郷創生など問題にさえならなかったろう。妙高で生まれた人たちは妙高の何かを目印に回帰するのだろうが、これは考えるだけでもロマンがあると思いたくなる。だが、考える価値のない妄想に過ぎないのである。
 サケの回帰本能による行動は生得的行動であり、サケは子供の頃の経験が懐かしくて戻ってくるのではない。一方、私たちは故郷で育ち、そこで学習し記憶したことを懐かしく思い出し、故郷への郷愁をつのらせ、戻ることになるのである。それらは学習の結果であり、本能によるものではない。サケと違って私たちはろくな本能をもっていない。本能をもたないゆえに、私たちは自由なのである。人が何をしようと自由だと強弁するのは、ちゃんとした本能をもたないことの裏返しなのである。
 サケは場所と時間の両方を本能的に知っていて、それゆえ適確な回帰行動ができるのだが、私たちが故郷に惹かれるのは時間と場所が独立した場合がほとんどである。いつ故郷に戻るか、故郷のどこに戻るかなど、どれも私たちの自由なのである。この自由な決断は擬似本能と呼ぶに相応しく、人の本能のいい加減さをいみじくも物語っている。
 私たちにとって、故郷は学習したものであり、それゆえ故郷は懐かしく、郷愁の対象となるのだが、サケは自分の生まれた川を懐かしく思い出したりしない。懐かしさが詰まった思い出は記憶された内容であり、本能は子孫の歴史ではあっても自分の記憶ではない。
 サケの故郷はサケには同じ意味をもつが、人の故郷は人それぞれに違った意味をもっている。人は故郷を学び、故郷の記憶をもったゆえに、その故郷を懐かしく思うのである。一方、サケの故郷は懐かしい思い出がつまった故郷ではない。
 こうして、サケとヒトの故郷はまるで違うものということになる。三面川のサケは地震を記憶せず、村上の人たちはそれを記憶し、故郷につけ加えるのである。となれば、タイトルへの回答は明らかだろう。