BさんのRadical Darwinism

<Bさんの質問>
 Bさんは大胆不敵な大学生。彼女は今次のように思っている。「正常と異常の違い」と考えられてきたものを「多数と少数の違い」に組み替えることが今の社会ではよくおこなわれている。老齢者、身障者だけでなく、家族制度、LGBT等、実に多くの事柄について、正常・異常から多数・少数へとシフトして、色々な問題が議論されている。それはあらゆる領域に及び、多様性を認め、少数派を守るという傾向が優勢になっている。
 Bさんはその傾向を支える思想は何か探ってみたくなった。そして、正常と異常を区別する正当な理由が見出せない場合、多数と少数の違いに過ぎないのだから、互いを同じように扱うべきである、という見かけの原則は穏健に見えるが、実はどのような変化も選択の結果として捉えるべきだというRadical Darwinismが背後にあることを突き止めたのだ。この思想はスペンサーのSocial Darwinismではうまく展開できなかったが、ウィルソンのSociobiology以来、徐々に浸透してきていると彼女には感じられた。Bさんは民主主義のもとで生まれ育った。彼女の素直な考えによれば、民主主義とは多数決の原理に基づきすべてを自由に決定する方法で、それはかのダーウィン自然選択説と同じものである。彼女は自然選択説は生物進化の理論であるだけでなく、人間社会や科学知識の歴史変化に関する理論でもあると信じている。彼女によれば、多数派、つまり適応度の高い生物集団が自然選択によって生き残るという自然選択説は、変化する社会や新しい知識に対して無差別に適用され、変化に抗する伝統的な理論、体制、宗教、道徳等がもつ既得の権利や権威を考慮しないことになる。
 Bさんの考えは評判の良いものでは決してないが、汎自然選択説をとるBさんがもつ質問の一部を列挙してみよう。それらは宗教がradicalであるのと同じような意味で、radicalである。
(質問1)
食べ物の好みが自由であるように、同性や異性を伴侶に選ぶのも自由であるべきだ。それは単に少数派に過ぎないだけなのだから、社会規範、倫理、宗教がそれを否定したり、排除したりすべきではない。だが、現実に既成宗教のほとんどはそれらに否定的。宗教界が扉を閉ざしたままなのはなぜか。
(質問2)
私たちは自らの自由意志で未来を決めることができる。それと同じように、宗教は私たちの自由意志によって選択できるのではないか。
(質問3)
宗教と世俗の知識や倫理に差があるのだろうか。神は一人息子イサクを生贄に捧げるようにアブラハムに命じたが、この試練を乗り越えたアブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒キリスト教徒、イスラム教徒から今日でも讃えられているが、これは子殺し未遂ではないのか。
 宗教に対しても自然選択説が適用されるはずだとBさんは考え、上のような質問をしたのだが、それら質問にBさんはどんな解答を期待しているのだろうか。
<Bさんの主張>
 大胆不敵な大学生BさんがRadical Darwinismの考えをもっていることを述べた。彼女の考えは中世なら確実に宗教裁判にかけられ、魔女の烙印を押されたろう。二つの対立する事柄について、いずれが正常か異常かを区別する正当な理由が見出せない場合、それは多数と少数の違いに過ぎないのだから、互いを同じように扱うべきである、という私たちが市民社会で正しいと思っている平等の原則は穏当そのもので、無害に見える。だが、実はどのような変化、シフトも選択の結果として捉えるべきだというRadical Darwinismがその背後にあることを知ると、それは害がないどころか、根本的に革新的で、時には危険で有害なことなのである。ところが、このことはあまり知られておらず、今でもはっきりと理解されているとはとても言えない。
 この思想の一般化の端緒はスペンサーのSocial Darwinismにあるのだが、伝統を重んじるイギリスではダーウィン自身が保守的だったこともあってうまく展開できなかった。20世紀に入って、アメリカのウィルソンが唱えたSociobiology以来、民主主義を国是とするアメリカ政府の後押しもあって、徐々に浸透してきていると言える。Bさんは民主主義のもとで生まれ育ち、20世紀の人たちがもっていた権威への偏見もない。20世紀は科学の世紀だったが、それでも自然科学は社会科学や人文科学とは違ったもの、民主主義や自由主義と科学的知識とは異なるもの、それゆえ、それらは混同すべきではないと考えられていた。
 そんな20世紀の常識など意に介さない彼女の素直で、直線的な考えによれば、民主主義とは多数決の原理に基づいてすべてを自由に決定する方法で、それはかのダーウィン自然選択説と同じもの、という明解極まりないものだった。彼女は自然選択説が生物進化の理論であるだけでなく、人間社会や科学知識の歴史変化に関する理論でもあると信じている。集団の中の多数派、つまり適応度の高いグループが自然選択によって生き残るという自然選択説は、変化する社会や新しい知識に対して民主的に適用され、変化に抗する伝統的な理論、体制、宗教、道徳等がもつ既得の権利や権威を考慮しないということにその特徴が発揮されている。自由平等思想はこの自然選択説の帰結の一つであるというのがBさんの怖いもの知らずの結論なのだ。
 Bさんの考えは良識ある人からみると、決して品の良いものではない。彼女の汎自然選択説とも呼べるその考えは多くの刺激的な主張を生み出してきた。宗教に限って、その主張の一部を挙げてみよう。宗教はradicalだが、それと同じように、Bさんの主張もradicalであることがわかるはずである。

(主張1)
 食べ物の好みが自由であるように、同性や異性を伴侶に選ぶのも自由であるべきである。そして、それが自由主義の主張であり、心の自由は尊重されるべきである。たまたま少数派に過ぎないのだから、社会規範、倫理、宗教がそれを否定したり、排除したりすべきではない。同性愛が誤った行為だという科学的根拠もないままに、既成宗教のほとんどはそれらに否定的で、その否定的な理由は大昔につくられた教義にあるだけである。
 では、同性愛や同性婚はRadical Darwinismによって、認められ、擁護されるべきということになるのか。
(そうなるべきというのがBさんの立場。同性婚について、「適応度の高いものが生き残っていく」という科学的な理由があるならば、その理由を使って同性婚の是非を議論できるのだが、それがない場合は同性婚は単なる少数派に過ぎないと考える。)

(主張2)
 私たちは自らの自由意志で自らの未来を決めることができる。それと同じように、宗教は私たちの自由意志によって選択できるのではないのか。自らの自由意志によってどれかの宗教を選択すること、あるいはどの宗教も選択しないこと、ができるのではないのか。
宗教改革の推進者たちは大抵人の自由意志を否定した。好きなことができないという仕方で私たちの心の中にまで入り込んで支配しようとするのが宗教の一般的な姿である。だから、宗教では問題にもならない「自由意志と決定論」の問題が昔から哲学では議論されてきた。)

(主張3)
 宗教と世俗の知識や倫理に差があるのだろうか。神は一人息子イサクを生贄に捧げるように命じたが、この試練を克服したアブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒キリスト教徒、イスラム教徒から今日でも讃えられている。だが、これは子殺し未遂ではないのか。倫理や道徳が時代とともに選択的に変わるように、宗教も変わるのであれば、神の特権的な位置さえ変化の対象になり、特に一神教的な宗教はRadical Darwinismと両立しないことになる。
(経験世界での知識は科学も常識もプラグマティックだから、その真偽は暫定的でも一向に構わない。だから、Radical Darwinismと相性は悪くない。相性が悪いのは宗教。その教義や組織が不変で普遍だと誇れば誇るほど、変わることはできず、Radical Darwinismと対立することになる。)

 宗教に対しても自然選択説が適用されるはずだとBさんは考え、上のような主張をしたのだが、Bさんは宗教だけでなく、法や規範も否定することになるのだろうか。