故郷の川:関川水系と有機水銀

 妙高市の小出雲の西側に広がる松山までの田圃は西田圃と呼ばれていた。今は学校町、末広町と呼ばれているようで、十三川の周りは十三川水辺公園になっている。松山から出た十三川は西田圃を横切り、昔のモグサ工場辺りで渋江川に合流している。夏休みには高校生の監視員付きで、十三川で水泳したのを鮮明に憶えている。十三川は綺麗な水で暑い夏の午後を楽しんだのだが、合流先の渋江川は十三川とはまるで違って、誰も近づきたくない汚い川だった。いつも臭く、時々魚の死骸が流れてくる川で、正に「公害」の川だった。公害の元凶は上流の「日本曹達」。今なら大問題になるのだが、当時は見て見ぬふりで、少なくとも私の周りでは誰も気にしているようには見えなかった。渋江川の両岸には住居が多く、そこに住む人々は不快な思いをしていたに違いない。水俣病メチル水銀化合物(いわゆる有機水銀)による中毒性中枢神経系疾患だが、私が十三川で呑気に泳いでいた頃の1956(昭和31)年に水俣で発見された。
 中学生になった私は、汽車通学で毎日「大日本セルロイド」の新井工場の横を汽車で行ったり来たりしていた。ダイセルは化学工場で煙突から炎が出て、風向きによっては酢のような臭いが漂っていた。ダイセルの工場排水がどの川に流されているかなど私の眼中になかった。当時の私は日曹もダイセルも似たような工場だと思っていただけで、何をつくっていて、周りの環境にどんな影響があるのかなど考えることもなかった。今風に考えれば、メチル水銀の汚染、水俣病の可能性が十分あった筈なのだが、旧新井でも旧高田でも中毒患者の話は聞いていない。新井にはダイセル、二本木には日曹という二つの化学工場があり、汚染濃度は相当に高かったのだ。ダイセル新井工場でアセトアルデヒドを、日曹二本木工場で苛性ソーダを、信越化学直江津工場で苛性ソーダをつくり、そのために水銀を使い、それが排水され、関川水系を汚染していたのだ。
 では、なぜ妙高上越では水俣病が起こらなかったのか、大きな謎で、謎は解かれなければなるまい。そこで、まず1958年の主なメーカーのアセトアルデヒド生産額を抜き出してみよう(以後の数値は[古家]参照)。

新日本窒素(のちのチッソ)(水俣) 19,436トン
大日本セルロイド(新井)      14,352トン
昭和電工鹿瀬)           6,207トン
電気化学(青海)           5,266トン

これは単年なので、何年かの累積を見比べると、

チッソ水俣)  1932-68 456,000トン
ダイセル(新井) 1937-68 307,000トン
電気化学(青海) 1945-68 167,000トン
昭和電工鹿瀬) 1936-65 103,000トン

となっている。1958年アセトアルデヒド生産量第1位の水俣と第3位の鹿瀬水俣病が発生したにもかかわらず、第2位の新井では発生しなかったのだ。累積で見ても、新井のアセトアルデヒドの生産量は何と鹿瀬の3倍近くなのである。
 次の数値は関川水系阿賀野川水系の工場の水銀の使用量と排水量である。

<関川水系>            水銀使用量 消費水銀量未回収(排水) 放流先
信越化学直江津 水銀電解法ソーダ  194.3    120.4       保倉川、関川
        塩化ビニルモノマー  65.6     62.6       保倉川、関川
ダイセル新井  アセトアルデヒド   106.6     53.9       渋江川、関川
日本曹達二本木 水銀電解ソーダ   100.9     54.3       渋江川、関川
<阿賀野川水系>
昭和電工鹿瀬 アセトアルデヒド    49.4     34.4       阿賀野川

明治期以降に電源が開発され、安い電力を求めて多くの企業が進出するのだが、関川水系では電気を大量に使用する化学工業が中心だった。1920年日本曹達(二本木)、1927年信越化学(直江津)、1935年大日本セルロイド(新井)の三社ができ、そのどれもが関川水系に工場の排水を流すことになった。
 さて、肝心の出来事が起こる。1963(昭和38)年上越地方の上水道取水予定地について、日本曹達二本木工場及び大日本セルロイド新井工場が、県に対して水銀が検出される河川からの取水は避けるべきと申し出て、県は取水地を変更したのである。取水地変更時、熊本での水俣病発生についての詳細な情報を県は知らなかったという。その際の取水先変更の理由は次のようなものだった。この理由は、二つの工場が関川水系での水銀検出を認め、それが人体に有害であることを示すものだった。自らが水銀を排出しているかどうかには言及していなかったが、それはほぼ明白だった。

・工場排水は県の公害防止条例基準以下でも、飲料水基準は別であり、飲料水では水銀は検出してはならない。
・微量でも常時飲料すれば人体に蓄積され、障害を起こす危険がある。
・化学工業では将来どのような物質が生産され、工場排水中に何が含まれるようになるか予測できない。
・厳重に配水管理していても、不測の事故で多量の有害物質が流失しないとも限らない。

だが、高田市と直江津市はこれら言明の意味を理解せず、計画変更に承服しなかったのである。そこで、両社は新潟県に助けを求め、両市が他の河川から取水できる予算措置などの協力を取りつけ、1964年に計画変更が実現した。この背後に何があったのか、それは私にはわからないが、幾つものベストセラー小説が書けそうである。新潟水俣病の発見が1965年、その2年前の1963年に二つの工場が水俣での公害状況を把握し、関川の水銀汚染を懸念し、上水道取水予定地の変更を申し出ているのである。新潟水俣病阿賀野川流域だけにとどまり、関川流域では起こらなかったのは日曹とダイセルの的確な対応によるものだった。二つの工場の責任者は企業経営と公害防止の間で見事なかじ取りをしたと言える。
 関川の水銀汚染は関川上流の妙高山の火山活動に由来する自然汚染説と、流域の化学工場三社の人為汚染説の二つがあった。妙高山南地獄谷で水銀の自然放出があることは古くから知られ、調査され、それが事実であることが確認されている。しかし、堆積物中の水銀濃度が工場が稼働を始めた1930年ごろから急激にその量が増加している。したがって、人為的な汚染が加わったことは確かである。
 阿賀野川と関川を比べると、川幅だけでなく、長さ、流域面積ともに阿賀野川の方が遥かに大きい。阿賀野川の方が魚種、魚量が多く、漁業を生業にしている人も圧倒的に多い。関川流域の人と魚の関係は阿賀野川に比べれば遥かに希薄だった。それでも関川水系の魚に関する規制は今でも続いている(関川水系の魚に関する規制は「平成30年版妙高市の環境」pp.18-9を参照)。

 若い時分には水俣にも阿賀野川にも一応の関心を持っていたのだが、肝心の故郷の汚染に関しては正に灯台下暗しで、まるで知らなかったのだ。これは今更ながら恥じ入るしかない。
 関川の河口が日本海でなく、狭い水俣湾だったら、どうなっていたろうか。関川が狭く、短くなく、阿賀野川のようだったら、どうなっていたろうか。関川流域で漁業が阿賀野川流域のように盛んだったなら、どうなっていたろうか。その答えを想像するなら、誰もが新井や高田、そして直江津水俣病が発生していたと言うのではないだろうか。これらはあくまで仮定の上のことに過ぎないとしても、少しでも間違えば、事態が大きく変わっていたのは疑うことができないだろう。
 私の中学校の友だち二人の父親は共にダイセル工場の幹部だった。そして、私はその友だち二人と高田の学校に通っていた。そして、私たちは高田の水道水を毎日飲んでいた。そんなことを考えると、我が故郷に水俣病が発生しなかったのは二つの工場の責任者が水銀汚染の怖さを新潟大学の医者たちより早く察知し、中毒患者を出さないようにするには何をすべきかをよくわかっていたからに違いない。ついそんなことを想像してしまうのである。彼らの決断に対する評価は観点が異なるとまるで違ったものになるだろうが、とても微妙なバランスの上で出された決断だったことは確かである。正に危機一髪のところだったのである。

阿賀野川水俣病は、西澤正豊、下畑享良「新潟水俣病の神経学」、『神経治療』Vol.32、No.2、2015、119-23を参照。また、関川水系有機水銀は、古家正暢「水俣病「1977年基準」がもたらした罪を問い直す」、『国際中等教育研究』東京学芸大学附属国際中等教育学校研究紀要10、2017、245-56を参照(本文のデータや記述の多くを使わせていただいた)。