脆い自然

 自然はどんな理由で脆く、壊れやすいのか。頑丈な岩や山、安定した大海原からなる自然は一見盤石に見えるのだが、何が脆く、壊れやすいのか。最近の気候変動によって天変地異が目立ち、確かに地球の気候は不安定に見える。そして、それは地球温暖化のためだと繰り返し言われている。日本では地震の危険が叫ばれ、両極では氷が大量に解け出している。多くの人はそんな不安定な地球の自然が意外に脆いものだと気づいていて、その脆さは実は私たちに原因があるということも知っている。それでも有効な手を打てないのがこれまた人間で、こぞって対応するというより、手をこまねいている場合が大半なのである。
 地球温暖化と並んで、それより前に叫ばれたお題目が生物多様性だった。こちらも未だに人気のある概念で、自然環境の保全活動には不可欠の概念として重宝されている。そこに登場する自然の脆さは生物の脆さのことである。「生きる」ことは「ある、存在する」とは違って、脆い現象であることが主張され、生物種が死ぬとその種は絶滅してしまう。多様な生物種を守るために、外来種の侵入を防ぎ、固有種を保護するといった活動が生物多様性を維持するために展開されることになる。
 自然の中の物の脆さと生き物の脆さは上述のように違うのだが、強さという観点で見ても物と生き物の強さは違っている。原子の安定性という強さに対して、生き物は世代交代によって種の保存をはかるという強さで対抗している。生き物は脆い弱さを異なる対抗策を講じることによって強さを演出しているのである。
 大雨によって土砂崩れが起き、斜面の樹木がなぎ倒される、といった光景を私たちは何度も見てきた。斜面を下り落ちる土砂は落ちる前も後も土砂であるが、流れ落ちた樹木は死んで枯れるしかない。土砂に命はなくても、樹木には命があり、土砂崩れによってその命が失われるのである。ここには二つの脆さの違いがはっきり見て取れる。
 私たちは自然のもつ二つの違った脆さを知っている。脆さの違いは命の有無である。そして、私たち自身はそれら二つの脆さを両方とも持っている。だからこそ、周りの自然にも二つの脆さがあり、無人となる集落だけでなく、生物のいない自然、生物の秩序の壊れた自然、そして天変地異がある自然を経験するのである。脆い自然に脆くした私たちが生活し、その生活によって一層自然は脆くなっていく。こんな矛盾したような話はすぐにでも解決策が見つかりそうなもので、実際解決策はあるのだが、誰もそれをしっかり実行しようとはしないのである。地産地消で地域おこしなどというのではなく、自給自足によって自然を強く保とうというべきなのである。
 脆い自然を身近の自然を通じて知ることが環境省だけでなく、そこに住む人たちの特権ではないのか。自分の住む自然は脆い、その脆い自然を守る、そのためにどんな活動ができるのか、何とも健全過ぎる掛け声に聞こえるだろうが、その背後には脆くていつ壊れるかも知れない自然の中で暮らしている私たちがいる。脆い自然は自然の本性を教えてくれる良き教材として浮かび上がってくるのである。