強制、決定、自由

(0)囚われの身でありながら精神は自由を保つという象徴的な例はソクラテスということになっている。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、「善く生きる」意志を貫き、亡命するよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされている。身体は束縛されていても、その精神は自由であり、ギリシャの崇高な自由主義の典型とみなされてきた。身体の拘束はわかりやすい不自由の例であるが、身体の拘束から自由な心の存在はギリシャ人もローマ人も、そして私たち現代人も共有している。

(1)ローマ帝国は、ゲルマン民族の侵攻、ローマ市民のアイデンティティの崩壊、農業経済の崩壊によって瓦解するが、既にテオドシウスがキリスト教を国教化して以来、キリスト教を精神的支柱とする中世の時代が始まっていた。中世ヨーロッパは「ローマ教皇の権威」と「国王(皇帝)の権力」が並立する二重の権力構造をもっている。ローマ帝国では、寛容な「多神教ギリシア・ローマ宗教」が信じられていたが、キリスト教ローマ市民統合の基軸にしたコンスタンティヌス大帝のミラノ勅令から、キリスト教の影響力が強まっていき、ローマ世界から「信仰の自由・思想信条の自由」が急速に失われていく。
 「寛容の精神」を持つ古代ローマ人にとっては、「心の中では何を信じ、考えても自由」という信仰・思想の自由が原則。だが、中世ヨーロッパでは「ローマ・カトリックの正統教義に反する信仰・考えを持つことは罪悪」と決めつけ、一神教が人の心を支配する。キリスト教に限らず宗教政治や共産国家は、「個人の内面の自由」に対して基本的に非寛容であり、閉鎖的コミュニティが形成され、「正しいことをしなければ処罰される、悪いことを考えれば制裁を受ける」という強迫観念が支配する。「淫らな事柄を想像さえしてはいけない、生殖と無関係な性的快楽は罪悪である」という性的欲求の抑圧は、中世ヨーロッパ社会では普遍的な信仰であり、法であり、倫理だった。「…すべし」という教義の形で私たちの心の有り様を強制するのがここまでの話。

(2)スコラ哲学は神学を論理的・実在論的に補強するため、批判精神や懐疑主義、自由意志を自由に議論できなかった。アリストテレス哲学を使ってキリスト教実在論実念論)を展開したトマス・アクィナスは『神の実在性』を論理的・文献学的に証明しようとした(神の存在証明)。彼はキリスト教の正統教義に対する反論や異説に対して、それに答える『質疑応答のマニュアル』を体系的に確立しようとした。その哲学は「精神的な普遍性(概念・観念)」が「物理的な事物(実際のモノとしての個物)」に先行して存在するという実在論に支えられていたため、ウィリアム・オッカム唯名論が登場すると、その足場が揺らぐことになる。オッカムの唯名論によれば、「普遍的な概念(内面の思考)」は「単なる記号(言葉)」に過ぎない。その結果、信仰(宗教)と哲学(学問)が分離し、「主観的な思考(内面)」と「客観的な行動」の境界が明瞭になる。中世ヨーロッパでは、人間が自分の行動を自由に選択できるという自由意志の存在を認めず、人間は、イデア(神の実在)のような普遍的な観念の実現に向けて行動するだけの「受動的知性」として定義されていた。しかし、オッカムが剃刀を駆使して、人間を従属させていた「普遍的な観念」は、具体的な事物を言葉で表現するために用いる「記号(名目)」に過ぎないとしたことで、実在論(普遍主義)による自由意志の呪縛がほどけ出した。

このような束縛は思想、意識内容を構成する概念の実在論的解釈がもたらす束縛である。だから、宗教的教義、法的、倫理的な規範とは異なるが、「…すべきである」という形式は共有されている。(1)はキリスト教の教義や倫理規範として個人の内面と外面の両方を直接に厳しく束縛していたのだが、(2)は実在論という哲学的解釈による束縛であった。オッカムの唯名論は言葉や概念を駆使した思考が記号操作であり、人の思考は記号操作の規則に従うことを標榜していた。

(3)環境内の外部情報が私たちに気づかれ、その情報の入力から情報の処理が行われる過程(情報処理過程)があり、そして出力として判断や行為がなされる、これは私たちが経験する日常の生活の典型的な因果的過程である。シャノンの情報理論、コンピューターの情報処理、遡ればカントの認識論はいずれも同型の情報処理過程を前提にして理論がつくられている。いずれも、「入力→処理→出力」の因果的な系列からなっていて、不思議なことにどこにも私たちの自発的な心の働きは見いだせない。リンゴが木から落ちることを重力の法則を使って説明するとき、どこにリンゴの自由意思を見出せるだろうか。リンゴの自由意思など荒唐無稽と退けることは簡単だが、リンゴの落下と同じような説明方式を認知過程を含んだ私たちの経験に当てはめようとすると、人間の心の自由はなくなってしまう。今はまだ十分に心や脳の働きがわからないが、それがわかることになれば、決定論的な仕方でわかることになる。物理的な運動が運動方程式によって決定論的に説明されるように、心あるいは脳の過程が規則的な変化として説明されることが「私たちの認知経験をわかる」ということである。古典的な現象の説明として「必ず…となる」という形式をもっている。つまり、明晰判明に説明するためには法則を使っての決定論的な説明を採用しなければならない。これは「身体が決定論的な法則に従い、心の働きはすべて最終的に脳に還元されるという物理主義的な主張を認めるならば、心の自由はない」という科学哲学的な強制になっている。

 (1)、(2)、(3)は三者三様、いずれの場合も「心の自由」は入り込む余地がないような形になっている。強制、決定にも複数の意味があることから、自由にも当然複数の異なる意味があることになる。そこで、(1)、(2)、(3)の何れからの自由が心の自由というべきなのかが大切になってくる。
*日常的な身体の運動が決定論的であるなら、ソクラテスの拘束は特別の状態ではなく、四六時中の普通の状態ということになる。