記憶の中の故郷

 「昔のことを思い出す、想起する」という点から見るなら、記憶している内容について圧倒的に有利なのは自然環境のような長い間変化しないものである。山や海、川や大地は建物や動植物に比べると長い間変わらず、安定していて、記憶内容を変更する必要がないのが普通である。それに対して、人間や動植物は生死の区切りによって大きく変わる。世界の変化は時間の経過、それに伴う生死と季節の変化である。時間の経過の中で自然環境を代表する山野は天変地異を除けばほぼ不変のまま。だから、妙高山火打山も私たちが生きている間は同じままと思われている。
 40歳前後に思い出す故郷は70歳になって思い出す故郷とは随分と違う。輝き躍動していた40歳の頃の記憶は、70歳を越す頃になると色褪せ、細部が不正確になり、生起を失ってしまう。生き生きと蘇る記憶の内容など、せいぜい40歳までのことで、後の記憶内容となるとお粗末この上なくなってしまう。記憶の中味は刻一刻と退化、劣化している。だが、その自覚を妨げているものがある。それが日々の記憶の更新であり、毎日知覚するものを古い記憶内容に加え、書き換えている。そのため、家族も生活世界も色褪せることなく更新されている。
 自然や建造物と違い、人や動植物は脆く、日々変化している。それらの記憶となれば、暫く更新されないと、信用できない程にズレてしまう。そのため、私たちは世界の諸行無常を感じ、生命への畏敬を持つことになる。故郷から不変の自然環境を取り去ってしまったなら、一体何が残るというのか。日々変化し、何も残らなくなってしまえば、私たちの昔の記憶の故郷は色褪せ、貧弱な内容に変わってしまう。ずっと故郷から離れていて、その変化を知らない場合、私たちが懐かしがることができるのは変わらないものしかない。故郷の山を見て安堵し、すぐに懐かしい気持ちを持てるのは、その山が安定して不変であり、子供の頃の山とほぼ違わないからである。幼馴染に50年ぶりに会ってもすぐに懐かしい気持ちになる人はおらず、相手を確認することが最初の作業になる。確認してから昔の色褪せた記憶を辿り、辛うじて思い出せて初めて、懐かしいという気持ちが沸き上がってくる。そんな微調整をしないで済むのが自然環境。
 故郷の様々なものを想起する時、大抵の記憶内容は色褪せて、はっきりしていない。とても断片的で、思い出せない事柄がたくさんある。そんな中で故郷の自然は意外にはっきりと思い出せる。その理由は自然の対象が時間が経過する中で比較的変わらないものが多いからである。三角形の記憶を持っていれば、50年前の三角形も今の三角形も変わらない。このような数学的な存在は特別だとしても、物理法則も記憶内容に変化は考えにくい。それらに次ぐのが山や川。妙高山は短期間には変わらず、それゆえ誰もが同じ懐かしい気持ちを持つことができるのである。