「嘘しかつかない」ことを巡って

 真理を考える際に出てくる基本概念の一つが「真、偽(true, false)」です。真、偽とは言明の真偽のこと、つまり「ある文が真である、偽である」ことです。では、真でも偽でもない、いわば中間の真理値をもつ言明はあるのでしょうか。真とも偽とも判定できない、曖昧な言明は沢山あると思いがちなのですが、真と偽の中間はないというのが古典的な二値論理の基本的立場なのです*。これに対して、多値論理やファジー論理(many-valued logic, fuzzy logic)は中間の値を積極的に認める立場です。このような形而上学的な議論と、話し手や聞き手のいるコミュニケーション場面での文の認知に関わる議論とでは状況はすっかり異なります。言明の真偽と言明の内容を知り、評価することとは別物だというのがアリストテレス以来の合理主義的哲学の基本中の基本です。「真理は個人の心の状態になど依存しない」という主張が合理主義の根幹に居座っているのです。

*どの言明も真偽のいずれかであると主張することと、その言明が真か偽かを実際に決定することとは根本的に違うことで、それは「出走馬のいずれかが勝つ」と言うことと「どの出走馬が勝つかを当てる」こととが全く違うことによく似ています。私たちが言明の真偽を確率値の如く受け取るのは、生活世界で知ることが十全でないことをわきまえているからです。「世界に始まりがある」という言明は私たちが世界に誕生する前から、そして絶滅した後も私たちとは無関係にその真偽が決まっている、そう考えるのがアリストテレス以来の存在論の主張なのです。

 嘘つきのパラドクス、あるいは自己言及(self reference)のパラドクスは、実はゲーデル不完全性定理とその証明のきっかけ、ヒントとなるもので、人の理性が不完全でしかないことを具体的に証明する引き金になりました。そして、その証明のための大前提が「嘘しかつかない」人がいるということだったのです。これは神の国では何ら問題のない数学的な仮定なのですが、日常的な、人の国ではできない相談だというのが私の主張です。でも、そうであっても、神の国幾何学であればこそ、人の国で役立つように、自己言及のパラドクスも同じような仕組みで同じように役立つのであり、その具体例の一つがゲーデル不完全性定理だったのです。

 理性の限界を示す難解極まりない不完全性定理より、その土台に横たわる西洋の哲学を支えてきた存在論的要素と認識論的要素の違いを真偽概念を通じて考えてみましょう。アリストテレストマス・アクィナスによれば、(既述のように)言明の真偽は私たちがその言明を知る、知らないには関係なく、決まっているのです。私が知らなくても、重力の値は決まっていますし、私の体重は私が知ることによって変わったりしません。ものがもつ性質はそれが知られることとは独立しているように、言明の真偽も誰がいつ知るか、知らないかとは無関係なのです。言明が真だということは、その言明が真だと知られないと決まってこないなどということはなく、知ることとは無関係に決まっているのです。「AがBである」が真であるのは、「AがBである」ことを知るから真になるのではないのです。これがアリストテレス以来の存在論の立場であり、そのような存在論的世界で成り立っている論理規則が古典論理学の規則なのです。私たちにとって、この古典論理の規則は生得的であるかのように信じて疑わない規則としてほぼすべての領域で使われています。ですから、「アリストテレス侮るなかれ」なのです。カントが如何に認識の優位を強調しようと、古典論理(あることの論理)を否定して、認識論理(知ることの論理)を提示することはできませんでした。

 その認識論的な観点からは、私たちが知ることが中心になります。ですから、知られる言明の間で成り立つのが認識論理なのですが、実はその論理規則はよくわかっているとは言えないのです。存在の原則はわかりやすいのですが、認識の原則は意見が分かれるのです。情報の送り手、受け手、知識や認知の基本規則を論理規則としてまとめることは、カント以来うまくできていません。恐らく論理規則などではなく、科学法則として認知科学の研究課題として明らかにされるのでしょう。実際、今では認知の規則として実証的に扱われています。
 そこで、よくわかっている存在論的な立場での論理規則の説明となる「二値性の原理」を再度説明してみましょう。「どんな言明も真か偽のいずれかである」と言うのが二値性の原理です。人の国では真偽の他に半分ほど真なる言明も認めてしまいがちです。でも、どんな言明も真か偽のいずれかであるというのが古典論理の前提であり、それが「二値性の原理」と呼ばれてきたものです。この原理を理解する際の肝心な点は、どんな言明であれ真か偽のいずれかであることと、その言明の実際の真偽を知っていることとは別のことであるということです。これは既に何度も強調した点です。では、「嘘をつく」とはどのように表現できるのでしょうか。
 言明「AはBである」について、「AはBである」は真である、「AはBである」は偽であるという高階の言明を考えることができます。嘘をつくとは「AはBである」が真の場合、「AはBでない」と言うことであり、「AはBである」が偽の場合、「AはBである」と言うことです。ですから、「嘘しかつかない」とは、どんな言明についてもその真偽を知っていて、知っていることとは違う真理値の言明を表明することです。つまり、「嘘しかつかない」ことが実行できるには、(推理を進めていくと、)すべての言明の真偽を知っていなければならないのです。

 このような古典論理の二値性は世界を外から客観的に、俯瞰的に眺めることであり、その世界から私自身が独立していることです。これは典型的な科学的見方だと思われるかも知れませんが、その科学的な見方は古典論理の立場を使って世界を見る、述べることから出てくることであり、科学独自の見方でも何でもないのです。その見方こそヨーロッパの合理主義哲学の真髄なのです。科学は人間の観点を無視するのではなく、科学の観点こそ合理的な人間の観点なのです。