地球温暖化をもたらすものとはばむもの

(週末の暇な時間の夢想のために)
 「生物多様性」と並んでよく登場するのが「地球温暖化」です。どちらも半科学的概念です。地球環境の未来について科学的に信頼できる予測がなされるとは、地球環境を解明し、部分的であれ私たちがコントロールできることです。それは、私たちが地球の新しい環境に適応するか、地球を私たちに適応させるかを意味しています。地球環境を私たちに合うように積極的に変えることが地球を私たちに適応させることで、今のところそれはできていません。ですから、従来の「適応」の定義には「地球が適応する」ことは入っていません。適応概念は地球の中の生き物の適応に対してのもので、地球は適応(用)外なのです。でも、地球も太陽系の一部として、ガイアであるとなれば、地球が何かに適応することがあっても決しておかしいことではありません。
 狡賢いカラスはこのような科学的な解明とその知識を巧みに使おうとするでしょう。そんなカラスの企みを遥かに超えるのが人の企み、魂胆であり、既にヒューマニズム、利己主義、利他主義といった掛け声のもとに泥沼の闘いを飽くことなく繰り広げてきました。残念ながら、今のところカラスを従わせる戦略さえ見つかっていません。
 今のところ科学知識のレベルで環境への満足できる対応策がないだけでなく、たとえそれが見つかったとしても、ヒューマニズムや利己主義がその知識の公正な使用を妨げることになります。科学からだけでなく、それを使う人の行為と倫理から見てみると、科学的知見の公正な利用を望むのはとても困難なのです。人を含む生き物の世界での人の位置は特別であり、人の命は何にもまして優先されるというヒューマニズムが信奉されている限り、環境のために人命を犠牲にすることは決して許されないことです。医者は何が何でも人命を優先するでしょうし、例えば樹木の枝のために人の命を犠牲にするといったことなど決して認められません。
 さらに、現実社会の中で、国々、人々の争いは、「生きる」ことに直結した利己主義がその基本にあります。自らが所属する国家や集団を超えた利他的な振舞いが望まれる政策の実現や武器の削減に求められることがわかっていても、その実現はほぼ不可能です。
 私たちのこれまでの歴史はヒューマニズム利他主義の両立的な実現が如何に困難かの証明でしかありません。歴史は新知識とその適用だけでなく、それによる不公正の結果の集積なのです。
 ヒューマニズムと地球環境のいずれを優先させてプログラムを組むのかと問われると、私たちはうまく選択してプログラムを組むことができないのです。地球のために人の命を捧げる、人のために地球を壊す、これらのいずれを選択するかという時期が間近に迫っています。地球を中心に考えるか、人を中心に考えるか、これはそれほど難しい問題には思えないのですが、そんな選択を迫られたくないというのが今の私たちの本音なのです。でも、このままではいずれ私たちの子孫はそれを選択しなければならなくなるでしょう。もっとも、それまで子孫たちが生存していればの話ですが…