ライチョウとの距離

「馴染みのないものを好きになるのは、危険なものを嫌いになるより遥かに難しい」

 二日間に渡ってライチョウに関する実践的な保護活動を中心に幾つかの資料、文献を紹介してきた。文献を読むのは苦手という向きには退屈だったことだろう。今日は私たちが普通にもつ疑問や謎の発端について考えてみたい。トキとライチョウの保護活動は共に鳥であることから似ているようについ思ってしまう。実際、鳥の保護という点では共通点が多いのだが、そこに私たち人間を介在させるとトキとライチョウは似ても似つかぬものに変わる。トキは私たちと一緒に生きていた。(頸城山塊の)ライチョウは私たちと生活が重ならない。トキは私たちと生活圏が重なる鳥で、その意味で家畜やペットに準じる存在なのだが、ライチョウは南極のペンギンのように私たちの生活とはかけ離れている(アルプスのライチョウは一部重なるが、動物園の外来の動物に似ている)。
 見知った生物への愛情と見知らぬ生物への愛情は同じかと問われると、大抵の人は違うと答える。好きでも嫌いでもないライチョウを保護するのはライチョウが好きだからではない。何せライチョウを見たことも、抱いたこともないのだから。知らないのに保護するのは、めくらへびにおじずと言われかねない。そこに登場するのが「生物多様性」という半科学的概念である。だが、この概念は様々な意味を持たされていて、文脈が定まらないとその意味もわからないという代物。
 「人命第一」に似ているのがペットの命を救う理由である。人命は理由抜きに大切で、最善を尽くして命を救うのが医の倫理と信じられていて、ペットのイヌやネコにはそれに準じる態度をとるのが普通である。だが、人とは現金なもので、それがウシ、ニワトリ、ブタとなるにつれ、命より食用が優先するようになる。トキは人里に住んでいて、農薬の被害鳥であることが明白だったため、トキを憐れんで保護することが普通の人の反応だった。では、ライチョウの場合はどうだろうか。
 私のように70歳を越えた者には、トキが頸城山塊に棲むことを知るのは恐らく成人してからではなかったろうか。妙高市のどれだけの人が火打山に行ってライチョウを見たのだろうか。見た人はごく僅かで、私自身も見たことがない。そこがアルプスのライチョウと異なるのである。アルプスのライチョウは比較的早くから知られ、多くの人に親しまれてきた。だから、トキ、アルプスのライチョウ、頸城山塊のライチョウの順に人とのつながりが薄くなると見ていいだろう。人と接点がほとんどないライチョウを保護する理由は本来ないのかも知れないが、多くの細菌を保存するのと同じ理由が考えられ、それが「生物多様性」というお題目なのである。
 私たちはまだ野生の生物を合成することができない。一度絶滅すると、自然に復活する可能性はほぼない。となれば、豊かな自然の生物種を守っていくことが必要である。生物の多様性を維持することによって自然の豊かさが保たれる。それゆえ、人とのつながりがないライチョウも保護される必要がある。これが退屈だが、多くの人が受け入れているライチョウ保護の理由であり、他の生物種にもおしなべて通用する万能理由である。こうして、「生物多様性を守るためにライチョウを保護する」ことが正しいということになる。
 さて、問題はお題目の「生物多様性」である。これはそもそも正しいのだろうか。多様とはどのくらいの濃度、数を指しているのだろうか。多様性を測る測度はあるのだろうか。そんな尺度はどこにもない。生物多様性に反するかのような主張がダーウィンの自然選択理論である。生存闘争は自由放任であり、自然選択によって生物多様性が保証されることはないのだが、自然選択と多様性の両立を示すシナリオはそれを否定するシナリオと同じ程度に描き出すことができる。
 選択によって優れた種が地域を独占することになるのが普通のイメージであるが、例えば、じゃんけんを考えると、三つの手はどれも同じ程度の強さを持っていて、いずれか一つが抜きんでて選ばれるということにはならない。このような状況では三つの手は同程度の強さを保ち、なくなることはなく、じゃんけんの三つの手が残り続けるのである。
 生物は本来的に多様なのではなく、単系統の歴史を持つというのがダーウィン以来の考えである。最初は多様ではなく、次第に多様になり、局所的に増減が繰り返され、現在に至っているという歴史を持っている。
 見たこともなく、好きでも嫌いでもなく、自分の生活に直接かかわりのないライチョウの保護に参加する理由は何か。この問題はとりわけ妙高の人にとって重要な問題。ライチョウと利害関係がある場合の解答はつまらない。妙高の普通の人にとってライチョウは存在しないに等しいのに、ライチョウの保護と言われた場合、一体何と答えればいいのか。真面目になればなるほど、この答えは見つけにくい。リップサービス生物多様性を守るためと、環境省と同じように答えればいいのだろうが、真面目な妙高の人はもっと真面目に答えるべきなのだ。目の前の絶滅を目の当たりにするのは忍びない、これがとりあえずの答えだとしても、この答えは人の死に対する倫理的な態度をそのまま適用したに過ぎない。となれば、未知のものへの常套の態度をとるべきで、ライチョウに対して意図的に何もしないで見守る、彼らの生息地を丁寧に、慎重に守る、これが普通の妙高人のライチョウ保護の常識的な態度だと思われる。