ボルツマンと統計力学

 物理現象の代表である運動変化が素直にわかる人にとって、最初の障害はもう一つの物理現象である熱変化の理解であり、これが意外にわかりにくいのである。前者は力学、後者は熱力学と訳されているが、単純に熱の力学ではないのが厄介な元凶なのである。
 熱力学の「エントロピー増大の法則」は20世紀に入る頃には広く知られていたが、「どうしてエントロピーは増大するのか?」 という肝心の理由は誰にもよくわからなかった。わからなかったけれども、科学者たちは、「エントロピーは増大する!それは本物の物理学の法則なのだ!」と信じ込んでいたのである。
 ところで、わかっていなかったのは「エントロピー」だけではなく、「温度」や「圧力」もそれらが何なのかはやはりわかっていなかった。「温度」や「圧力」は、熱力学の基本的な物理量である。それにも関わらず、それら物理量がわからないということになると、物理学の基本がわからないということになってしまう。しかも、「温度」や「圧力」の理論体系、つまり熱力学が物理理論として完全にできあがっているにも関わらず、そこから温度や圧力、そしてエントロピーが何かを見出そうとしても不明のままだった(温度や圧力、エントロピーはそれらを使って計算はできたが、それらが何かは熱力学では説明できなかった)。熱力学は温度や圧力、そしてエントロピーが何かを説明する理論ではなく。それらを使って計算する理論だったのである。この謎に明確な答えを出そうとした一人が、ボルツマンである。彼の答えは単純で、

「温度や圧力は、実は「原子・分子」という粒子が衝突運動をニュートン力学に従ってしていることによって起きる」

と考えた。つまり、「温度が高い(熱い)」とは、小さい粒子が、激しく運動しているということであり、「圧力が高い」とは、壁に小さい粒子が勢いよく衝突しているということである、と彼は考えたのである。つまり、熱現象をわかっている古典力学を使って説明しようというのがボルツマンの作戦だった。
 そのためにボルツマンが思いついた真に革新的で、素晴らしいところは、「温度や圧力などのマクロな現象」を「粒子の運動というミクロな現象」で解釈し、熱現象を説明するための方法として、確率や統計という概念を初めて物理学に持ち込んだことにあった。つまり、「何億個もの粒子の運動ひとつひとつを知ることは到底できない。だが、ひとつひとつの粒子がランダムに運動していると考えて、その統計をとれば、『何億個の粒子全体』の状態を ある程度予測することができる」ということである。この奇抜で画期的な発想は先輩のマクスウェルがもち、ボルツマンが共有したものだった。ボルツマンは、この考えをもとにして、「統計力学」という、物理学の新しい一領域を切り開いた。つまり、熱力学の確率・統計を使った力学的な解釈が統計力学という新分野となったのである。
 この統計力学を使えば、「ある気体が、ある温度のとき、どのくらいの速度で拡散するか?」という問題も、「気体=運動する粒子の集まり」として、「温度の高さ=1個当たりの粒子の運動の大きさ」として、粒子の運動の統計をとれば、その拡散のスピードを計算することができる。それは、実験結果と一致したし、熱力学の理論ともピタリと一致した。そして、熱力学では謎だった「エントロピー増大の法則」も、統計力学によって、「ランダムに動く粒子の『確率的』な結果にすぎない」と容易に説明ができることになる。
 ボルツマンは、古い歴史を持つ熱力学のすべての理論が、「単純な粒子の運動に還元できる」ということを 統計的に証明したのである。私たちはこれを「熱力学の力学への還元」、「熱力学の力学的解釈」、「熱力学の力学化」などと呼ぶ。
 だが、ボルツマンの画期的な理論は、当時の学会から、猛反発を受ける。熱や圧力を「運動する粒子の集まり」として説明することに大きな抵抗があった。それどころか、現在とは違って、当時の多くの科学者は「原子、分子」が本当にあるとは考えていなかった。ボルツマンの時代、原子や分子は、その存在が確認されていなかったからである。当時は、「物質は、エネルギー(波)のようなものからできている」と考える人が多かったので、わざわざ、原子という仮説を持ち出して、それを統計的に説明しようとするボルツマンの理論は否定されることになったのである。物理学者で哲学者、実証主義者のマッハも、原子は観測されていない、つまり、実証されていない、だから、実証されていない仮説など、非科学的なものであり、排除されるべきだと反対した。こうして、ボルツマンは学会から嘲笑され、まわりの科学者から徹底的に攻撃されることになった。さらに、ボルツマンに対して次の難題が出される。

「あなたは「コーヒーに入れたミルクが拡散していくのは、単に確率の問題」だと主張するが、その時間反転である『拡散したミルクが集まっていく』という現象は、確率的にはほとんど起こらないことになるのか?そうだとすると、あなたの確率の理論は、時間の向きが反転すると、適用できないことになる。でも、ニュートン力学運動方程式は時間の向きを反転させても全く変わらないから、時間が反転しても適用することができる。では、あなたの理論の「時間反転に対する非対称性」は、ニュートン力学のどこにもないが、これは一体どこから来たのだろうか?」

ボルツマンはこれに答えることができなかった。こうして、1906年、ボルツマンは、首吊り自殺をとげる。「統計力学の父」と呼ばれ、物理学の一分野を切り開いた天才は、生涯認められることもなく、自分の理論に確信を持つこともできずに、死んでいった。ボルツマンの自殺から1年もしないうちに、アインシュタインが「分子の存在」を証明し、物理学界に華々しくデビューすることになった。