有恒学舎と会津八一

 私は私学で学び、私学で教えてきました。私の子供の頃、故郷の妙高では国公立が私立より優れていると疑いなしに信じられていましたし、私の出た県立高校などは国立大学に入学させることだけを目指して受験のための教育に明け暮れていました。私立の文学部に行きたいと担任教師に言ったら一笑に付されたのを今でもよく憶えています。妙高に私学はありませんでしたが、妙高の隣の板倉町(現上越市板倉区針)には有恒学舎がありました。現在は県立の高等学校になっていて、私のような私学出には寂しい限りです。
 戊辰戦争高田藩預かりとなった会津藩士南摩綱紀(なんまつなのり)の影響を受けたのが増村度弘(のりひろ)。学校を創って郷土の人材を育成しようと考え、その遺志を受け継いだのが子の増村朴斎。彼は父の遺志を継ぎ、28歳で有恒学舎を設立しました。明治29年勝海舟から「有恒学舎」の扁額が届けられ、開校式には東洋大学創設者である井上円了が出席しました。
 孔子の『論語』から校名がとられ、「有恒」とは「他にまどわされない一定不変の心を持つ」ということを意味し、そのような心をもつ人間を育成することを目指したのです。有恒学舎は明治29年に増村朴斎が私財を投じて設立、「西の松下村塾、東の有恒学舎」とも呼ばれました。東京に福澤諭吉創立の慶應義塾、京都に新島襄創立の同志社が、そして板倉には増村朴斎創立の有恒学舎があったのです。学校創立時には勝海舟が校名を書き送っています。昭和26年に板倉村立有恒高等学校(定時制)が開校、昭和39年に全日制の県立有恒高等学校となりました。
 会津八一は明治39年から4年間英語教師として有恒学舎に在職しました。八一は明治14年新潟市古町通五番町に生まれました。彼は25歳で早稲田大学卒業直後、新進の英語教師として有恒学舎で教え、明治43年に辞任して上京、坪内逍遙に招かれ、早稲田中学校の英語教師となります。その後、早稲田大学文学部講師となり、東洋美術史を講義、さらに昭和6年早稲田大学文学部教授となります。
 八一は職業的な書家ではありませんが、西川寧が日展の審査員に推挙したほど実力がありました。その書は清廉そのもので私の好きな書です。画像は禅語の「林下十年夢 湖邊一笑新」で、日展に出展しようと意気込んで書いたもので気力溢れる作品です。読み方は「りんかじゅうねんのゆめ こへんいっしょうあらたなり」で、「一人前になるには十年は必要、しかし十年はあっという間で、その苦しさの中で頑張れば、報われて喜びの時が来る」といった意味です。会津八一は自らの住まいを「秋艸堂(しゅうそうどう」と号していました。20代後半からこの号を用いていて、「秋艸堂」の「艸」は、草を総称する語句で、萩・菊・葉鶏頭など秋の草花を好んだところから命名されました。妙高の「艸原祭」にも使われる文字ですが、妙高は春の草、八一の場合は秋の草が意味されています。新潟県人ならほぼ毎日見る「新潟日報」の題字も彼が書いたものです。朴斎の書も有名で、昨年9月には上越で「朴斎先生生誕150年記念遺墨展」が開かれました。

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