公園て何だろう:二つの公園(2)

日本の公園
 日本に公園が生まれたのは明治に入ってからのことです。江戸時代、江戸、京都などの近郊の景勝地が庶民の遊覧の場所でした。本来民主的な社会施設である公園は封建的社会にはなく、支配者の恩恵的な施設として存在したに過ぎません。例えば、水戸の偕楽園のように先見的な大名によって庶民に開放された庭園は、一種の公園的な施設とみることができます。1873年(明治6)の太政官布告第16号「社寺其ノ他ノ名区勝跡ヲ公園ト定ムル件」によって「公園」が公的施設として明記されたのが始まりです。明治維新は、欧米の文物、制度等の導入を積極的に図った時期ですが、公園に関しても、既に欧米において公共施設として定着していた制度をそのまま取り入れたのです。布告によって定められた当初の公園は、(1)これまで多くの人々によって野外レクリエーションのために利用されていた名所旧跡、(2)国有地、(3)公衆の野外レクリエーションの地区として県が選定し、大蔵省に申請し、許可を得て、営造物として設置管理するものでした。
 この進歩的な制度の創設はきわめて現実的で、先見的な公共団体は迅速な対応をしました。東京府の金竜山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)、三縁山増上寺(さんえんざんぞうじょうじ)、東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)、富岡八幡社(とみおかはちまんしゃ)、飛鳥山(あすかやま)の5か所、大阪府の住吉(すみよし)、浜寺(はまでら)の2か所、広島県厳島(いつくしま)、鞆(とも)の2か所、高知県の高知公園、金沢の兼六園、高松の栗林(りつりん)公園などが、わが国の先駆的な公園として設置されました。これらには都市公園的なものと自然公園的なものとが混在したまま、区別なく含まれています。
都市の公園
 都市公園については、1888年(明治21)の東京市区改正条例以降、都市計画的な見地から整備が進み、1919年(大正8)の都市計画法の制定によって都市施設としての公園の概念が確立され、1923年の関東大震災の復興事業等を契機にして、組織的、体系的な整備が図られました。
 戦災復興事業として都市の再建が計画され、公園の整備計画は都市環境の改善のために意欲的に進められました。しかし、その実現のためには強力な法的措置が必要で、そのため1956年(昭和31)に「都市公園法」が制定され、都市公園の設置および管理に関する規準を定め、その健全な発達を図ることが目指されました。都市公園法は、公園、緑地の性格を明確にし、その配置および規模に関する技術的基準を示しました。また、公園施設として設けられる建築物の面積総計は、原則として公園の面積の2%を超えてはならないことや、みだりに都市公園を廃止してはならないことなどの基本的な制約が設けられました。さらに、1976年の改正によって、この法律に基づいて国が設置管理する都市公園として、国営公園の制度が設けられました。
自然の公園
 日本の自然公園は、太政官布告に基づいて設置された道府県立公園のなかから明治初期から大正時代にかけて設置されました。日本三景(天ノ橋立、厳島、松島)を含む著名な景勝地などが選ばれました。
 明治中期には、近代自然科学の移入によって、人々の自然観にも変化が現れ、風景の科学的な見方に基づく客観的な風景観が成長してきます。1894年(明治27)の志賀重昂(しげたか)による『日本風景論』は、近代風景論を確立した画期的な著書です。その後、新たに多くの優れた自然風景地が紹介され、近代的な自然保護の思想も芽生え始めてきます。一方では野外レクリエーションとしての登山、キャンピングなど新しい利用形式も欧米から移入され、自然風景地の利用の新しい局面が開かれ始めます。これらの道府県立公園は、すべて国有地に設定されたため、地域も限定され、一般に面積も比較的小さいものが多いのですが、新しい風景地として雲仙、青島、大沼、榛名などの名がみられるようになり、新たな自然公園の発展の兆しを見て取れます。
 大正年代に入り、それまで自然発生的に設定されてきた自然公園に関して、近代造園学に基づく理論的な体系化が図られます。1918年(大正7)の田村剛の『造園概論』は、近代造園学の確立に大きく貢献した名著ですが、とくに公園に関して新たに「天然公園」という名称を用いています。その後、森林風景を基調とした自然の風景計画に関する研究も進められ、森林公園、天然公園、自然公園、国立公園という名称が用いられ始めて、自然風景の保護を図るとともに、野外の休養地として開発整備を図る目的をもって設定される自然公園という考えがつくられていきます。このようにして、道府県立公園のシステムのなかで、自然公園が分化してくるにしたがい、優れた自然の風景地について国家的な立場から適切な方策を講じることへの要望が高まってきました。イエローストーン国立公園の設置に関する情報も早い時期にもたらされ、明治末期には国立公園制度を創設しようとする動きが具体的に現れました。
 国立公園について明確な概念の確立がないまま、1921年(大正10)以降議会に対する請願が活発になってきました。わが国の国立公園をどのように考えるかについての論議がにわかに高まるのです。国立公園に類する用語についても、国民公園国営公園、国設公園などが、それぞれいくらか違った意味合いをもって提案されました。また、国立公園は自然公園であるべきか、あるいは自然保護地域であるべきかという基本的な性格論争も激しく行われました。公園行政を所管する内務省において国立公園に関する検討を始め、1930年(昭和5)国立公園調査会を設置して、正式に取り組むことになりました。主としてアメリカの国立公園を参考に、国の設定する自然公園として制度化する方針が定められ、制度の内容および地域の選定について検討が進められました。翌1931年の国立公園法の制定により国立公園制度が発足しました。世界的にも画期的な「地域制」に準拠したもので、公園行政に対する新局面を開いたものでした。全国12の候補地について12の国立公園の指定が完了しましたが、第二次世界大戦勃発のため事実上停止されました。
 終戦後、GHQ(連合国最高司令部)の指示もあって、国立公園行政は強力な再建が図られ、1948年(昭和23)には当時の厚生省に国立公園部が設置されました。国立公園の新設に対する全国的な要望が強くなるなかで、翌1949年、国立公園に準ずる地域として新たに国定公園に関する制度を設けるための国立公園法の改正が行われました。さらに、国立公園、国定公園都道府県立自然公園を一つの体系のなかで整備管理するために、1957年、国立公園法を廃止して新たに自然公園法が制定されました。昭和40年代に入って環境問題に対する関心が高まり、1971年(昭和46)環境庁の発足とともに、自然公園の行政は自然保護局の所管に移り、自然公園行政も自然保護に重点が置かれることになります。なお、2001年(平成13)の省庁再編に伴い、所管は環境省自然環境局となった。2012年現在、国立公園30か所、面積209万ヘクタール、国定公園56か所、面積136万ヘクタール、都道府県立自然公園は2011年現在で313か所、面積197万ヘクタールとなっています。

*私たちが「風景、景観、景色」などと呼んでいるものは一体何を指しているのでしょうか。