煙草の昨今

 学生時代に喫煙を覚えた私はヘビースモーカーになった。そして、40年近い喫煙時代に色んな煙草をたっぷり経験した。概して美味しくない紙巻き煙草と違って、パイプ煙草や葉巻は大抵美味しかった。昭和の日本は煙草に寛容で、どこでも煙草が吸え、歩道は吸殻だらけだった。パイプ煙草は煙を吸いこまずに口の中で舌によって味わうためか、舌が荒れるという欠点(そして、肺がんではなく舌がんになるという危険)があるが、ダンヒルの煙草缶を開けた時の香りは脳髄を痺れさせ、支配するような魔力を持っていた。昭和の時代は街角に必ず煙草店があり、どんな小さな店でもパイプ煙草や葉巻が取り揃えてあった。デパートに煙草売り場がなくなって久しいが、いずれ煙草の自動販売機も姿を消していくことだろう。
 上越タイムスの昔の記事(2014年5月1日)によれば、妙高市大鹿地区では江戸時代から煙草が盛んに栽培されていて、その歴史をまとめたのが『ふるさと大鹿はタバコの里』(地域づくり大鹿刊)である。この冊子は煙草栽培に関わった人々への聞き取り調査、アンケート、資料集めに4年という歳月をかけてつくられたという。17世紀中ごろに大鹿村の五郎左衛門が長崎から種子を持ち帰り、大鹿で煙草栽培が始まり、昭和初期に最盛期を迎え、米に次ぐ収入源となった。しかし、後継者不足、喫煙者の減少などにより、今は耕作されていない。私の記憶を辿るなら、夏休みのサイクリングは中学生の私の趣味のようなものだった。一人で自転車で飯山まで行ってくるようなことを夏の午後にやっていたのだ。時には別のコースを走ってみたいと思い、自転車で飯山街道に入り、暫く進み、右に曲がって97号線を行く。原通りを過ぎ、関川を渡るとそこが大鹿で、煙草の畑が目につき出す。私よりずっと背の高い煙草には青い葉が茂り、目に鮮やかだったのを憶えている。原通りや大鹿は煙草の産地で、私が中学生の頃はまだ栽培されていたのだ。新井の上町には煙草の葉を集める倉庫があったと記憶している(定かではない)。
*現在の大鹿の情報は「地域づくり大鹿Facebook」を参照。
 煙草はナス科のニコチアナ属の植物で、意外にもあの茄子と同じ仲間。煙草が生育するメキシコを支配したスペインは,フィリピンに到達し,そこから煙草は1601年(慶長6年)日本に薬として伝えられている。煙草の喫煙は庶民に広まり、江戸幕府は煙草禁止令まで出している。しかし、元禄の頃にはその禁令もなくなる。喫煙具も日本独自の進化を遂げ、特にキセルは色々な材料で作られた。
 私の祖父母も喫煙者で、二人ともキセルで煙草を吸っていた。「ききょう」、「みのり」といったキセル煙草を憶えているし、こっそり自分で吸ってみたこともある。とても苦く、なぜ美味しいのか解せなかった。それがいつの間にか、なぜガキの頃は不味いと思ったのか、それが解せなくなったのだが、今はその煙草ともすっかり無縁になってしまった。