妙高の生い立ちを垣間見ると…(2)

 歳をとると生まれ故郷が気になるのが人の常だが、故郷に大した想い出をもたない私でもそれなりに故郷が気になり出す。死と生は意外に近いのである。自分の故郷は知っているようで知らないことばかりなのだが、知っていることは子供の頃に経験した事柄ばかりで、故郷についての客観的知識や最新情報など皆無に近い。そんなことへの反省や後悔を込めながら、我が故郷を自己流に振り返ってみた。妙高は旧新井市、旧妙高高原町、旧妙高村の併合によってできたが、新井の生い立ちを探ってみよう。

在郷町、そして宿場町
 在郷町は中世から近世に、農村部で商品生産の発展に伴って生まれた集落。主要な街道が通る農村では、その街道沿いに形成される場合が多かった。ランドマーク(目印)、パス(道)、ノード(結節点)、エッジ(縁)、ディストリクト(地域)の5つが町を構成する要素と言われるが、在郷町が城下町、宿場町、門前町などと決定的に違うのは、町の中心となる施設(城郭・大きな宿場・有力寺社など)がないことで、それが農村部で自然発生的にできたことを物語っている。城下町などと違い、商工業者のほかに農民が多く在住していることや、都市と農村の性格を併せ持つことも特徴である。そこで私が知っている戦後の旧新井を見直してみると、北国街道沿いの上町、中町、下町は商店が並び、小出雲や石塚となると農家の集落となっていて、この在郷町の特徴が見て取れるのである。実際、町場の子供たちと小出雲の私は違うと子供の私でもはっきり感じていた。
 在郷町の発達には近世期の在方(農村部)における生業の変化があり、近世に在方では米麦栽培のほか養蚕、たばこなどの商品作物が生産され、それによって在郷町が生まれたと考えられている。私が住んでいた頃は、町場(まちば)に対して、「在=いなか」の意味で使われていた。私が子供の頃の理解では、新井の場合、小出雲や石塚は在とは呼んでおらず、それ以外の郊外の農村集落が在、在郷と呼ばれていた。
 在郷町は都市的要素と農村的要素が社会的・空間的に混在しながら町を形成するという特質を持つと言われてきた。つまり、農村地帯において、流通の結節点となり街道沿いに商工業が集積した「まち」であり、他農村とは一線を画した存在だった。在郷町として農産物の集散地であり、商工業の中心でもあった。だが、高度経済期を迎え、車社会が到来する頃には、郊外型の大規模店舗が登場し始め、商店数や娯楽施設は減少していく。その結果、多くの在郷町は衰退し、新井も他の在郷町と運命を共にしたのである。
 妙高市の前身の一つが新井(荒井)宿。新井宿は北国街道と信州の飯山とを結ぶ飯山街道の交差する交通の要所として発展した。現在でも旧街道沿いには古い町屋や東本願寺新井別院、賀茂神社などが点在する。街道から少し離れると延喜式神名帳に記載されている斐太神社や上杉景虎の最期の地となった鮫ヶ尾城があり、縄文時代から古墳時代までの多くの史跡があり、古くから開けていた地域だとわかる。物資の集積地として早くから開かれていた新井宿は、飯山街道の起点で、信州・江戸への荷物の運搬の拠点としても栄えた。新井の町並みは上・中・下の三町からなり、中心となる中町には本陣(大名・幕府役人などの休憩施設)・町名主宅(村の代表者宅)・高札場(法令を知らせる立て札所)・問屋(宿役人馬の責任者宅)などが軒を列ねていた。元禄14(1701)年から文化6(1809)年の間、幕府代官所の陣屋が置かれ、大崎郷・上板倉郷・下坂倉郷の計97ヵ村総高5万石余を支配していた。また在郷町として毎月6日・10日・16日・20日・26日・晦日に市が立っていた。私の子供時代、既に新井宿の建物などなく、市が立って賑やかだった記憶しかない。

 大雑把に分類すれば、今の妙高市は人が住むところは在郷町と温泉町、自然が広がるところは国立公園と農業地からなっている。複数の町や学校が一つに統合されることが起きた時、郷土愛や愛校心は一体どのように変わるのか。これが国となると、統合され、消えた国の人々の愛国心はどこに行くのか。二つの在郷町が一緒になるのと在郷町と城下町が一緒になるのとでさえ随分と違う筈だとあれこれ思案しても、世に多い多民族国家のことを考えれば、贅沢な悩みでしかない。