妙高の生い立ちを垣間見ると…(1)

 歳をとると生まれ故郷が気になるのが人の常だが、故郷に大した想い出をもたない私でもそれなりに故郷が気になり出す。死と生は意外に近いのである。自分の故郷は知っているようで知らないことばかりなのだが、知っていることは子供の頃に経験した事柄ばかりで、故郷についての客観的知識や最新情報など皆無に近い。そんなことへの反省や後悔を込めながら、我が故郷を自己流に振り返ってみた。妙高は旧新井市、旧妙高高原町、旧妙高村の併合によってできたが、その生い立ちを赤倉温泉から瞥見してみよう。

 江戸時代の温泉開発となれば、赤倉温泉赤倉温泉妙高火山の北地獄谷に湧き出す温泉を引湯してきている。多くある日本の温泉町の一つであるが、その歴史は独特だった。妙高山御神体とする宝蔵院(関山権現)がその温泉の権利を握っていた。安永7(1778)年に長野県牟礼村から、天明元(1781)年には地元の庄屋たちから湯治場の開湯の願いが出された。だが、宝蔵院は神聖な妙高山に俗人が入るのを嫌い、さらに享保12(1727)年にすでに開湯していた関温泉から入る冥加金が減るのを嫌い、許可を出さなかった。その後、享和3(1803)年に地元の庄屋たちが高田藩の後押しを得て、再度開湯の願いを申し出た。文化11(1814)年、庄屋の中嶋源八らが中心となり、藩主榊原政令(まさのり)に、温泉場開発の願いを出した。温泉買い入れ金800両、打撃が予測される関の湯(今の関温泉で宝蔵院の領地)への迷惑料300両を宝蔵院に支払うことを条件に、文化12年に許可を受けた。文化13(1816)年3月より着工。総経費として、3120両余、拝借米2000俵、続く温泉宿の建設や新田開発の費用が2161両という壮大な開発事業だった。文化13年9月、ついに共同浴場の湯船2箇所が完成し、赤倉温泉は日本唯一の藩営温泉となった。今風に言うなら、赤倉温泉第三セクターによる温泉経営であり、日本最初のものだった。
 その後、明治26(1893)年に信越本線直江津・上野間の全線が開通した。これと同時に従来の湯治客が激減する。そのため、それを補う方法として県外客を誘致することに努めた。その結果、皇族や文化人・県知事などが訪れるようになった。明治32(1899)年には尾崎紅葉が赤倉に滞在している。彼の筆力を借りて、当時の赤倉を垣間見てみよう。ところで、煙霞(=烟霞)は「けむりとかすみ」、転じて「ぼんやりとかすんで見える風景」のことを指すが、「煙霞療養」は「都会を離れて空気の清浄なところで療養すること」である(煙霞痼疾となると、「深く山水を愛して執着し、旅を好む習癖」で、芭蕉西行、能因、そして良寛たちのもつ習癖)。
 尾崎紅葉の『煙霞療養』は明治32(1899)年7月1日に東京・上野を出発し、赤倉温泉に2泊、新潟市に5泊、佐渡20日間余り過ごした旅日記である。旅行目的は、持病を治すためであった。新潟に親戚(叔父が大蔵官僚で、当時新潟の税務署長)がいて、紅葉の健康状態を心配して、療養に来るよう再三言われ、決心した。当時は、清水トンネルがなく、東京から新潟へは高崎から長野に入り、妙高を経由して直江津に出るしかなかった。直江津までが12時間、ここに一泊して、さらに新潟まで行かねばならなかった。その初日から赤倉滞在まで彼は次のように記している。

…入ってみると大変が有る。出札口に掲示して、水害の為線路毀損に付田口駅以北は不通の事、と飽くまで祟つて居るのであつた。…何とか禍を転じて福と作す工夫は有るまいか、と鉄道案内の一〇二頁と云ふのを見ると、田口駅の項に「赤倉温泉あり」としてある。

…六時三十分に垂として新潟県下越後国中頸城郡一本木新田赤倉鉱泉(字元湯)香嶽楼に着す。

…凡そ己の知る限りに、此ほど山水の勝を占めた温泉場は無いのであるが、又此ほど寒酸の極に陥つた町並を見たことが無い。

この最後の文は当時の赤倉の惨状について紅葉の実感が素直に描かれている。また、無類の温泉好きの与謝野晶子も赤倉が好きな文人の一人だった。文化人の中でもっとも赤倉を愛した人は、日本美術の理解者である岡倉天心だろう。天心が初めて赤倉を訪れたのは明治39(1906)年で、その後彼は赤倉に別荘を建て、東洋のバルビゾンを夢見た。だが、彼には赤倉は活躍の場ではなく、終焉の地だった。
 鉄道の開通により湯治客が減少し、苦境に立った赤倉温泉を救ったもう一つは、駅に近い田口地区から持ち掛けられた分湯の話である。田口地区が赤倉の温泉を分湯する権利を、当時の金額6000円で買い取り、妙高温泉が明治36(1903)年から営業を始めた。さらに、大正6(1917)年から池の平温泉の開発が始まった。
 その後の話はまた別に機会に述べてみたいが、ここで老人の教訓を一つ。上越の人々は上杉謙信に片思いを続け、榊原家には概して冷たいようなのだが、赤倉の人々は宝蔵院ではなく榊原政令こそが赤倉温泉の生みの親の一人だったことを肝に銘じるべきなのである。つまり、「赤倉温泉といえば岡倉天心」だけでなく、「赤倉温泉といえば榊原政令」でもあるのだ。