「ヤマブキの記憶」雑感

f:id:huukyou:20190411054331j:plain

八重のヤマブキ

 ヤマブキ(山吹)が気になり出したのは1年ほど前からで、子供の頃の記憶の中のヤマブキンに大異変が生じたのである。子供の私にはヤマブキの黄色の花はどれも八重だった。だから、私は八重のヤマブキを真正のヤマブキとして記憶し、それをそのままおよそ65年間保存してきた。我が家の裏庭に山吹の群生があり、春先には斜面が黄色に染まり、そこに近くのシャガが混じって、その目に鮮やかな光景が子供の私を惹きつけたのだ。原色の黄色と緑の葉の取り合わせも見事で、裏庭のヤマブキの光景が私の記憶に焼き付き、それがしっかり保存されてきたのである。だから、次のような『後拾遺和歌集』の歌にも妙に関心をもったのである。

 ななへやへはなはさけどもやまぶきのみのひとつだになきぞあやしき(かなしき)
*「あやしき」の代わりに「かなしき」という説もある

 「七重八重に山吹の花は咲くけれども、実が一つもないのはふしぎな(悲しい)ことです」がこの歌の意味。詞書(ことばがき)によると、雨の降る日に蓑を借りに来た人に歌の作者(兼明親王)が山吹の枝を差し出した。それを理解できなかった相手が、真意を尋ねたので詠んだのがこの歌で、山吹に実がならないことをふまえ、「みの」に「蓑」をかけてある。太田道灌が、農家で蓑を借りようとして少女に山吹の枝を差し出され、その意味がわからず、後に不明を恥じて歌道に励んだという逸話で有名になった。だが、正直なところ、こんな歌を詠まれてもいい気分はしないのではないだろうか。小生意気な少女と誰もが感じるのではないか。平凡な私には「蓑がなくて申し訳ない」と言われた方がずっとスッキリする。太田道灌の逸話もいかにも作り話という気がしてならない。蓑などと駄洒落にせずに(山ぶきの蓑とは一体何なのか解せない)、歌そのものを味わえば、博物学的な疑問が「あやしき」に、実をつけない山吹への気持ちが「かなしき」に詠われていて、いずれでも筋が通る。こんなクイズとも頓智ともいえる逸話は、さらにこれを下敷きにした落語「道灌」と似たり寄ったりで、文学的には二流の作り話でしかなく、歌の真髄とは程遠い。こんな風な結末があっても、私のヤマブキそのものの記憶はなんら損なわれることなく保存された。後でわかったことだが、八重咲のヤマブキはおしべが花びらに変化し、花粉ができず、そのため実ができないのである。

f:id:huukyou:20190411054436j:plain

一重のヤマブキ

 それが昨年、近くでヤマブキらしきものを見つけ、よく見たのだが、私の記憶の八重のヤマブキではない。だが、それこそが普通のヤマブキだったのである。私にはそれが記憶のヤマブキとは大違いで、色だけが同じ別の種類の植物に思えたのだ。これは簡単な事態で、調べれば済むこと。そこで、調べた結果、それはヤマブキであり、しかも一重のヤマブキが本来のヤマブキだと知ることになった。何とも背筋が寒くなるような話で、私はヤマブキについて70歳になるまでずっと偏見をもち続けてきたのである。それ以降、ますますヤマブキが好きになったことは言うまでもない。

f:id:huukyou:20190411054524j:plain

シロヤマブキ

 その後、さらに知ったのは年寄りの手習いではなく、シロヤマブキ(白山吹)の存在。ヤマブキの花に似ているのに色が白い。ヤマブキのアルビノかと訝しく思いながら、調べてみると「シロヤマブキ」は単なる色違いではなく、ヤマブキとは別の植物だったのだ。シロヤマブキはバラ科シロヤマブキ属の落葉低木。花弁は4枚で、白色。ヤマブキはヤマブキ属で 5 弁花。何と黄色いヤマブキとは別属なのである。葉の形も非常によく似ているが、その配置が違う。ヤマブキは互い違いに生えているが、シロヤマブキは向かい合わせ。こうして、ヤマブキとシロヤマブキは似て非なるものとわかった次第である。

f:id:huukyou:20190411054628j:plain

シロヤマブキ

 さて、ここからが今日の本論。それは、私がヤマブキに特別の気持ちをもったもう一つの理由。祖母はよく季節の花を切り花にして小学校に持たせていたのだが、それが4月末から五月にかけてはヤマブキだった。私が嫌々学校に持っていく花は担任の先生によって花瓶に生けられ、何日かクラスを彩ることになる。それは私だけのことではなく、他の子供たちもよくもってきていて、特別なことではなかった。だから、花を生けた花瓶が複数個ある日もあった。こんなことは今はしてはならないことなのだろう。だが、子供たちがもってくる花は豪華なものではなく、それぞれの家にあるごく普通の花ばかり。周りに花屋があった記憶は私にはなく、時々立つ朝日町の市(いち)で売られていた記憶しかない。花は花屋で買うものではなく、家でつくるものだった。それを近所におすそ分けするのと同じように、学校にも持たせるというのが親の気持ちだったと思われる。教室はそれで僅かでも和み、彩られるのだった。
 そんな習慣もいつの間にか消えていく。花が商品になり、社会が忙しくなっていったためかも知れない。花のある教室をその後の学校生活で私は見ていない。これは少々寂しい結末かも知れないが、子供時代の経験は大抵学校でつくられる。私のヤマブキ経験も学校と結びついていた。そんなヤマブキ経験が何十年も経って更新され、新たな記憶となるのは何とも不思議で、感慨深いのである。

*気になる問い:シロヤマブキに八重の花はあるのか?
私はまだ実物を見たことがないのだが、一重の花が変異して八重になることが確かめられていて、画像もある。こうして、ヤマブキ属のヤマブキの一重と八重の花と、シロヤマブキ属のシロヤマブキの一重と八重の花とが存在することになる。