「ふるさとに戻る、帰る」

 春休みが終わって新学期が始まりました。子供にとって長い休みとなれば夏休みですが、「夏休みが終わって学校に戻る」とは日本語ではあまり使われない表現です。でも、英語ではありきたりの表現で、Back to schoolは普通に散見される表現です。学校と同じように、家やふるさとについても考えてみましょう。毎日家を出て、「家に戻る、帰る」ように、「ふるさとに戻る、帰る」を捉え、いずれもが同じ延長線上にあるとするなら、家、学校、そしてふるさとの順に「戻る、帰る」の意味を比較考量できそうです。家からふるさとへと進むにつれ、「戻る、帰る」の意味は比喩的で曖昧になっていくとともに、その謂い回しを使う一人一人によって大きく異なる意味をもつようになっていきます。「家に帰る」のはほぼ誰にも似たような意味なのですが、「ふるさとに帰る」場合は人によって大きく異なってくる場合があるのです。
 そのような「帰る、戻る」を心や精神の領域にまで広げてみると、

自分に帰る、戻る  人に帰る、戻る  自然に帰る、戻る

といった表現に行き着くことになります。「自分」、「人」、「自然」のどれもよく使われる概念を指していて、なかなか哲学的な響きをもっています。
 上記のような個人の場合から、例えば、「国に帰る、戻る」までその範囲は融通無碍と言えるのですが、「ふるさとに帰る、戻る」はちょうどその中間領域にあると考えることができます。
 ところで、人には必ず自分の戻る場所があるのでしょうか。人の生活とはどこかに行き、また戻るということの繰り返しだと考えられていないでしょうか。誰も普通はそんなことを考えないのですが、言われてみるとその通りと多くの人が頷くのではないでしょうか。「生活の拠点」とはそのような「行って、戻る」場所のことも指しているのです。
 衣食住の住は、ホームがあり、そこを起点に生活することですから、家もふるさともそのような起点の一つとして考えられてきました。すると、その起点へのこだわりが情緒的に家やふるさとへの思い入れを助長することになります。それは、人が生活の起点に固執していることをはっきり示しています。
 私たちが「学校に行くのであって、学校に帰るのではない」と思うのは、その際の起点が自分の家にあるからです。でも、社会に出て、もう一度やり直そうとする場合は、「学校に戻る」のです。やり直す、充電する、鍛え直す時に戻るのが家、学校、そしてふるさと、ということになるのではないでしょうか。
 このような見方は少々我が儘な、一方的な捉え方でもあります。家、学校、ふるさとは利用されるだけではない筈です。私たちに対して少しは自己主張してもいい筈です。家や学校は私たちに対して時にはうるさい程に色々要求しますが、ふるさとの要求はとても曖昧で、ほとんどないと言ってもいい程に弱いものです。ふるさとはもう少し私たちに要求してもいいのかも知れません。どうもいつでも気楽に戻れるふるさとばかりが強調されてきたようです。ふるさとの私たちへの要求は意外に朦朧体で、はっきりしていないのです。ふるさとが私たちに何を求め、期待してきたのか、もっと耳を澄ませて聞き取るべきなのです。