鶏が先か、その卵が先か(風狂老人日記のきっかけ)

 まず、「ニワトリが先かタマゴが先か」と問われた時の次のような解答を読んでいただきたい。

 A hen is only an egg's way of making another egg, or a chicken is just an egg's way of making another egg.

 「鶏は卵が別の卵をつくるための方法、手段、道具に過ぎない」とキッパリ明言されると、何かとても穿った内容を述べたという風に考え、禅問答のようだと脱帽してしまいがちである。そして、流石にバトラーだと唸らせるのである。さらに、生物個体のもつDNAと生物個体自体はいずれが主人かとなれば、それはDNAだというのが20世紀以来の定番となり、このドーキンスの考えはバトラーの20世紀版だと解釈されることになる(Samuel Butler, Erewhon, 1872, Richard Dawkins, The Selfish Gene, 1976.)。
 鶏と卵について、バトラーはいずれが原因で、いずれが結果かを問題にして、私たちをアッと驚かせ、困惑させた。常識は卵ではなく鶏を中心に事態を捉えてしまうからである。一方、ドーキンスは20世紀の生物学の知識を駆使して、バトラーの問いをいずれが主でいずれが従かと問い直してみせた。バトラーは因果的に先なのはいずれかと問うてみせたのだが、ドーキンスは論理的に先なのはいずれかと問い直したのである。そして、生物世界を考える際の基本単位はダーウィン以来の個体ではなく、DNAだと巧みに説明してみせたのである。
 いずれの問い方が適切なのか、あるいは二つの問いの間の関係は何なのかなど、様々な疑問が次から次へと噴き出してくる。それらに対する解答を探す前に、問い方から問い直してみる必要がありそうである。

・どの季節が先で、どれが後か
この問いは発せられた文脈がわからないと、問いの意図がわからなくなる場合がほとんどで、大抵の人はこんなことを尋ねない。
・天と地はいずれが先にできたか
大地、海、空のいずれが先につくられたかは有意味だが、天と地のいずれが先かは曖昧で、問いとは誰も思わないだろう。
・上流と下流はいずれが先にできたか
これに答えるには頓智が必要だろう。
・サイクルや周期がある場合、原因や結果を識別し同定できるか
昼と夜、春夏秋冬がないと、随分と自然観、風景といったものが変わる。因果的な変化を重ねていくと、いつの間にか周期的な規則性が登場することになる。あるいは、周期的変化はどのように因果的なのか。
・仮定とそこからの演繹的な帰結
囲碁や将棋の勝負に勝つ過程は因果的に説明できるが、かつ理由は論理的にしか説明できない。
・親子関係、師弟関係、主従関係、友人関係等々の人間関係
これらの関係には因果的、論理的、反復的以外の関係がより大きな役割を演じていると誰もが思うのではないか。となると、いずれが主でいずれが従かなどという問い自体が大した問いではないこともわかるだろう。

 状況に応じて因果的な前後関係だけでなく、論理的な前提と帰結のような関係も含め、いずれが主人公なのかといった問いを発したくなる。私たちの生活世界での常識となれば生物個体が中心となる世界であるから、個体の間での因果関係がもっぱら考えられ、それ以外のことは眼中になく、それゆえ問題として認識されないというのがこれまでの歴史だったと思われる。
 では、鶏と卵の適切な関係とはどのような関係なのだろうか。バトラーの因果関係からドーキンスの論理関係へと議論の場は展開されてきたのだが、さらにそれを発展させるなら情報関係が考えられるのではないか。情報としてのプラン、設計があり、それを実現したのが結果と受け取ることができる。これは情報の流通と実現の関係とでも呼べばよいだろう。
 プランとしての情報が実現されて、具体的なものが情報から生み出される。そして、その道筋、過程が反復的であり、しかも安定的にコピーされ続けることが生命維持に直結していることを考えるなら、いずれが原因でいずれが結果かも、いずれが主でいずれが従かも重要ではなく、コピーの存続のために二つのこと(DNAと生物個体)が使われていることを認識することが重要なのである。