「無知の知」と知ったかぶり

(1)知っていることを知る(知の知)
(2)知っていないことを知る(無知の知

 「何」を知っているか、とソクラテスに問われれば、その答えは、人の名前、計算の仕方、離婚の理由といった諸々のもの。その諸々のものは直ぐわかるものから、暫し考えてからでないと答えられないもの、辞書で確認しなければならないものまで実に様々。様々に知っている状態が異なっていて、一筋縄でいかないのが私たちの知識の実態。だから、「知っていること」を知る仕方も多様で、差異があることになる。これを気障に「知の差異性」と呼んでおこう。
 「何」を知っていないか、と問われれば、知っていないのだから、何を知らないかは答えようがないと(「知る」を行為と解して)答えるのではないか。そうでなければ、知っていないことを比喩的に表現して、間接的に答えるしかないだろう。
 これらの答えはソクラテスの「無知の知」とは異なる。ソクラテスの場合は次の(3)のようになっている。

(3)知っていないということを知る(ソクラテス的な「無知の知」)

(2)は「I know what I don't know.」、あるいは「I know what I didn't know.」のことだと考える人がほとんどだろうが、ソクラテスの場合は「I know that I don't know anything.」、あるいは「I know that I know nothing. 」、「I know one thing: that I know nothing.」ではないのか。ソクラテスの場合、何を知らないかの「何」は問題にならない。そのため、無知の確認には差異はない。つまり、「無知の同一性」が成り立つ。
 「知る」が行為であるのと違って、「知らない」は行為ではなく(心的な)状態である。これは、「歩く」は典型的な行為だが、「歩かない」は文字通り動作の否定であり、行為ではないのと同じことである。

(4)知っていることを知らない
(5)知っていないことを知らない

 いずれも矛盾した、無意味な文だと直感するかも知れないが、矛盾でも無意味でもない。実際、(1)と(2)の「知る」は認識するという行為を表現しているが、(4)と(5)の「知らない」は行為ではなく、心的状態を表現している。ついでながら、「知っている」、「知っていない」はいずれも心的状態に言及している。「知らない」は行為ではなく、一つの心的状態であり、(4)も(5)も高次の意識状態の表現として可能である。

(6)知ることを知らない
(7)知らないことを知らない

 これらの文もやはり矛盾でも無意味でもない。ソクラテス無知の知は心的な状態を知ること、わかることである。それと同じ仕方で知の知を理解すれば、知っている状態を知ることであるが、それは少々退屈なことで、面白みがない。知っている状態を知ることと、知る行為を知ることは違っている。後者は知ることを自覚的に行うことに過ぎず、高次の意識ではない。
 肝心な点は、何を知っているかの「何」に応じて、「知っていることを知る」が変わることである。再度確認してみないと知ると言えないものがたくさんある。「知っている」と言っても尋ねられるたびに実行しないとわからないものも多い。「知っている状態」は様々で一言でまとめることができないのである。ところが、知っていないことは再度知るなどということはできないし、知っていないということを知ることは知っていないことの内容の再確認は不必要。それゆえ、いずれにしろソクラテス無知の知は「知の知」とは根本的に異なるのであり、真に厄介なのは「知の知」なのである。「知の知」の解明こそが賢者の石を手に入れる鍵を握っているのである。
 そして、ソクラテスが知っていない心的状態を知るというのとは違って、「知っていない状態」を高次の意識として知るのではなく、「知っていない内容」を知るのが知ることのまともで当たり前の役目だということを肝に銘じるべきなのである。
 これでスッキリしたかと言えば、一層混乱しただけかもしれない…

 さて、「無知の知」を再考し、「知ったかぶり」こそが知識の本質であるという非常識に見える議論を以下に展開してみよう。それに賛成か、反対か、いずれかの議論を自ら行ってみてほしい。それができなければ、ヨーロッパ哲学の伝統に従って、あなたの負けということになる。

 プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、「ソクラテスより知恵あるものは誰もいない」というアポロンの神託は、はじめはソクラテスにとって謎だった。彼は「自分が知恵ある者だなどということは全く身に覚えがない」という「無知の自覚」と「神が嘘をつくはずがない」という「神の信仰」との間にはさまれて、アポリア(難問)に陥ったからである。そこで、神託が誤りであることを示そうと、世間で知恵ある者と思われている三人-政治家、詩人、手職人-のもとを訪れた。そこで彼が見出したのは、それぞれ「自分が知恵ある者だと思っているが、実はそうではない」ということと、彼自身は、例えば善や美などということを「実際に知らないので、彼らのように知っているとも思っていない」ということであり、この無知の自覚の点で自分の方が彼らより「ほんの少しばかり」知恵があるということだった。こうして神託の謎は解け、それが反駁されない真理であると悟った。しかし、ソクラテスは、彼を知恵ある者だとする世間の人々の偏見を前にして、神のみが知恵ある者だと主張する一方、この神託を「人間たちよ、お前たちの中では、ソクラテスのように自分は知恵については全く価値のない者だと自覚している者が最も知恵ある者なのだ」と一般化して解釈したのである。

 知ったかぶりは人間の常であるが、知ったかぶりが知識の悪用を諫めるための反面教師の例であることもよく知られている。誰も知ったかぶりを褒め言葉としては使わない。しかし、知ったかぶることこそが知識の本性であり、それがなければ人間は知識を使うことができないという点に、忘れられてきた知識の謎が隠れている。知ったかぶりこそ知識の本性だという主張を考えてみよう。
 「無知の知」はソクラテスの名言として有名である。ソクラテスが他の人より優れていると言えるのは「自分が何も知らないことを知っている」という点にある、というのがその解釈で、なるほどと多くの人々を唸らせてきた。だが、「知らないことを知っている」ということは形容矛盾の匂いがしないだろうか。あることを全く知らないなら、それを知っているとか知らないとか、と言ったことは話題にもならない。表面的な理解、聞きかじり、部分的な知識をあたかもすべて知っているかのように(他人に対して)振る舞うこと、つまり、知ったかぶりをすることを諫めたものと考えるのが自然で、無難な解釈となっている。
 誰も生活に必要なものすべてを自らの手でつくらない。知識も同じで、すべて自前の知識でないと使えないとなったら不便この上ない。次の例を考えれば、私たちだけでなくソクラテスさえ他人がつくった知識に頼っていることが納得できるだろう。「AがBである」ことがどのようなことなのか、どのような意味なのかを知らなくても、それを使って「BがCである」ことと組み合わせて、「AがCである」ことを導き出すことができるし、それだけでなく、その結果を様々な活動に使うことができる。論理規則をすべて知らなくても、この推論を正しいものと受け入れ、活用できる。知らないことがあるのは恥だろうか、それとも誇りだろうか。知らないことを誇るのが「無知の知」の通常の解釈である。だが、「知らぬが仏」が成り立つ状況では、ソクラテスはどのように言うだろうか。また、「地震の予知は2割程度しかできない」という状況で、ソクラテスの考えを聞いてみたい。私たち現代人はソクラテスと違って、知らないことがあると心理的に不安になる場合が多い。「無知の知」と言うことによって一体何か役立つようなことが導き出せるのか。知りたい好奇心や知らなければならない義務や責任があるとき、ソクラテスの格言は何を教えてくれるのだろうか。
 「経験的な知識に完全なものはない」という主張は無知の知を具体的に表現した例文である。経験世界には私たちの知らないことがたくさんあり、そのことを知るのが上の主張である。だが、実際には眼前の対象についてまず知ったことを確認する。知識が完全でなければ使うことができないなどと考える人はいないだろう。不完全な知識と経験的に知った事柄を組み合わせ、それによって知ったことを既知の知識ネットワークに乗せて発展させるのがプラグマティックな知識の使用である。知ったかぶりをしなければ、知識を使いこなすことはできない。
 「知るとは何か」という問いに答えるために必要なのは「知の知」であって「無知の知」ではない。知らないことを知ることが哲学的な洞察の結果などと考えるべきではない。人は自分が知らないことを間髪入れずにわかるのであり、それは心が確信できるほとんど唯一のものと言っても言い過ぎではない。