自然の都合、人の都合

 「生物種とは何か」という問いはSpecies Problemと呼ばれて、20世紀の生物学の哲学では主要問題の一つだった。私たち一人一人は生物個体(individual organism)と呼ばれるが、人間はHomo sapiensと呼ばれる生物種(biological species)でもある。私たち人間がその一例となる生物種は、個体を越えた交配可能なグループということになっている。家族、親族、民族等をすべて含む人間の最大のグループというのが直観的なHomo sapiensということになってる。
 一方、「この生物種は何か」という問いは生物を同定するという問題であり、通常は生物図鑑を調べたり、生物学者に尋ねたりして決定、同定することができる。「この生物種は何という名前か」という問いと同じだと考えられていて、同定問題とは名称や名前を知ることだと思われている。しかし、あえてこだわるなら、「何という」という表現が「何という名前」を指すか、「何という生物」を指すかで二つの問いが同じか違うかに分かれることになる。
 いずれにしろ、「生物種とは何か」と「この生物種は何か」、あるいは「この生物種は何という名前か」とはより基本的な次のような問いの違いの具体例になっているのである。そのより基本的な問いの違いとは、「Xとは何か」と「このXは何か」(Xに「生物種」を代入すると上の例になる)である。この違いを際立たせる例として挙げられるのは、「色とは何か」と「この色は何色か」、あるいは「人とは何か」と「この人は誰か」であり、この他にも沢山ある。
 Species Problemに関心をもってきたのが進化生物学であり、様々な試みが20世紀後半から行われてきた。この問題は生物の分類とも密接に結びついており、DNAを中心に研究される分子生物学の応用分野として大きな変貌を遂げてきた。そして、分子レベルでの分類学博物学から分子生物学への発展を象徴するような分野となった。そのような変化の中で指摘されずにきた哲学的な事柄の一つについて如何に述べてみよう。
 人には名前があり、その命名の方法は多様で、しっかり決まっている訳ではない。命名の基準は相対的であり、時間や空間に応じて変わってきた。その基準は人間社会の法律に似て、しかしそれ以下の厳密性しか持っていない。むしろ、命名の自由が保証されていることの方が重要視されてきた。誰でも好きな名前をつけることができるが、それでもまるで何でもよい訳ではない、といった程度の基準が人の名前の場合と言えよう。では、生物の名前はどうか。誰も個々の生物種の名前が素粒子や分子の名前のように厳格で、画一的だとは思わないが、私たちの個人名ほどはいい加減ではないと思っている筈である。その直観は正しく、ある程度の厳密性があり、分類学の知識に基づいて学名が統一的に作成されてきた。だが、人の名前に略称や愛称があるように、生物の名前にも俗称が学名に優先して通用しているのも事実である。そして、その俗称が私たちの生物への愛着や嫌悪を表現し、生物について考える基本になっている。それが重要なのである。私は生物学者でないので学名を使って生物を指し、考えてはいない。恐らく、今の生物学者も学名を基準にして生物世界を考えてはいないのではないか。種名辞(Species term)は考えた結果の表現に使うだけではないのだろうか。

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ヤマブキ

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シロヤマブキ

 問題は生物学者ではない普通の人々の間での名前の使われ方である。そこで、「生物種とは何か」や「これは何という生物種か」といった問いを支えている「Xとはないか」、「このXは何か」のXに生物種の俗称を入れた場合に限って考えてみよう。二つの場合を取り上げるが、それらがモクレンとヤマブキである。それぞれの学名はMagnolia quinquepeta、Kerria japonicaである。だから、「モクレン」も「ヤマブキ」も和名あるいは俗称と言うことになる。薔薇と白薔薇、赤いチューリップと黄色いチューリップと表現すれば、薔薇やチューリップの色の違いを表現していると普通に考えられる。では、同じように白木蓮ハクモクレン)、白山吹(シロヤマブキ)を白い木蓮、白い山吹と考えて構わないのだろうか。だが、そう考えると大間違いとなるのである。シロヤマブキの学名はRhodotypos scandens、ハクモクレンの学名はMagnolia denudataで、それぞれが別の生物種であることが明白にわかる。しかし、和名ではその区別は判然としない。白い色をしたモクレンやヤマブキなのか、別の生物種なのかはそれぞれの名前からはまるでわからないのである。モクレンとヤマブキの場合、色が違えば種も異なることになるのである。

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ミツバツツジ

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シャクナゲ

 一方、ツツジとサツキは同じ種類だとわかっても、シャクナゲツツジの仲間だと判断する人は少ないし、ハイカラなアゼリアという名前がツツジだとは思われていない。このような命名に係る特徴は科学的な知識や分類とは異なっていて、私たちの生活世界に根ざしたものになっており、それゆえ、私たちの風景や景色を構成する重要要素になってきた。科学的な自然観と風景や景色が異なるのはこのような名前とその使用の違いに基づいているようである。
 自然の都合が脚色されることなく反映された知識やそれを表現する用語と、人の都合がもっぱら反映された知恵やそれを表現する語彙とがミックスされた世界に私たちは住んでいる。自然の都合だけを考えて世界を知り、理解しようとするのが科学者だとすれば、科学は単純明快な活動ということになるのだが、人はその清き流れだけの世界ではなく、清獨併せ呑む生活世界の方が好きなようである。つまり、人は自然の都合より自らの都合を優先するようである。そして、それには理由がある。

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 錯視図形の一つを挙げてみよう。私たちにはらせん状に見えるが、実際は同心円の集まりだという錯視図形である。紫木蓮と白木蓮は花の色が違う木蓮であり、山吹の黄色の花が白になったのが白山吹としか見えない私たちの感覚的経験はらせん状に見えてしまう視覚像と同じで、感覚経験を主に捉えれば、必ずやそれが生活世界の経験となる。それゆえ、感覚は私たちを欺くということになるのだが、それはやはりプラトンらの傲慢とも思える偏見で、私たちの感覚が欺かれるにはそれなりの理由があることを忘れてはならない。私たちは自らの生存のために欺かれるべくして欺かれるのである。