言葉とクオリアなど:ヘレン・ケラーの体験から

 ヘレン・ケラー全盲全聾でありながら、言葉を学習することを通じて、人間として見事に生き抜くことができた。動物と変わらなかったヘレンを人間に変えたのがサリバン女史だった。人類が言葉を獲得することによって進化の歴史の中で勝者になれたように、ヘレンも言葉を学習することによって人間になれたのである。ヘレンは私たちと同じように言葉を通じて知るという方法を手に入れ、したがって、私たちと同じように学習し、知識を獲得することができるようになった。これは、視覚、聴覚に支障があっても、言語があれば知識を手に入れることができることの立派な証拠になっている。では、全盲全聾のヘレンは色や音のクオリアを知っていたのだろうか。ヘレンがサリバンと最初に出会った時、彼女は全盲全聾を感じさせない程に活発な子供だった。それは、我が儘で癇癪持ち、欲望を叶えられなければ暴れるだけ、といった暴力的な活発さだった。そんなヘレンを相手に、サリバンはまず「モノには名前があること」を教えようとする。言葉を腕などになぞることで伝えようとするが、ヘレンは綴られたスペルは再現できてもその意味を理解できない。ケーキを食べさせる前に何度も綴らせ、「ケーキを食べる行為」と結びつけ、習慣をつけていこうとした。人形がほしい時、ケーキが食べたい時、水が飲みたい時、ヘレンはその行為に関連する言葉を綴るようになるが、それらをものの名前としては理解していなかった。しかし、ヘレンはあるきっかけで言葉の意義に気づき、その瞬間からものに名前があることに気づくのである。
 ヘレンの両親が、ヘレンの我が儘を許していることに抗議し、サリバンとヘレンが離れの家に移ったことは有名な話である。小屋に住んでいる黒人の子どもとヘレンの触れ合いをきっかけとして、ヘレンの行動が少しずつ変化していく。こうして、信頼して心を開いて、従うようになったヘレンは、1887年4月5日、 井戸水の流れからインスピレーションを得て、ものには名前があることを理解する。そして、ヘレンがサリバンは何者か尋ねたとき、彼女は自らを「先生」(teacher)だと名乗る。サリバンはヘレンの手をその水の吹き出し口の下に置き、冷たい水が片方の手の上をほとばしり流れている間、もう片方の手に「water」という単語を、始めはゆっくりと、次には速く、綴った。ヘレンはじっと立って、彼女の指の動きに全神経を集中させる。突然ヘレンは、なにか忘れていたものについての微かな意識、わくわくするようなものを感じた。そして、どういうわけか、言語の持つ秘密が彼女に啓示された。w-a-t-e-r という綴りが、彼女の手の上を流れている、この素晴しい、冷たいものを意味していることを知ったのである。
 「生理学的感覚」から「人としての感覚」を手に入れるには何かが必要である。二つの感覚の違いは何なのだろうか。『視覚はよみがえる 三次元のクオリア』 (筑摩選書) スーザン・バリー、宇丹 貴代実訳)を例にしてみよう。著者は神経生物学教授。頭を固定したまま、右目を隠して前を見て、次に左目を隠して見る。少しずつ微妙にずれた風景が見える。少しずつずれている画像だから脳で統合して奥行きを感知できる。しかし、斜視の人は、左右の目が見ている方向が大きく違い、一つの像に結ぶことができない。そのため、統合できない情報のうち片方を無視する方向へ脳が適応してしまい、本来は両眼の情報を扱うが、どちらか片目の情報を無視するようになる。無視することになった情報を扱うニューロンはそのまま衰え、機能を回復しないと従来は考えられていた。だから、斜視は幼少期に手術しなければ永遠に複眼視を取り戻せないのが常識。バリー教授も手術によって眼球の方向は整えたが、複眼による立体視は習得できなかった。手術後、何年も経った後、訓練を開始し、48歳になって複眼視を獲得。斜視になっている眼球の位置を整える外科手術は何歳でも可能なのだが、脳が対応できないため、成人後の外科手術では、二つの眼球からの情報を統合して一つの像にする脳の「ニューロン神経細胞)」問題が解決されないとずっと言われていた。
 クオリアは生理的感覚なのか、人としての感覚なのか。いずれであれ、各個人の間で同じかどうかの保証がない。クオリアが生得的な感覚だとすれば、それは誰にも同じ筈で、違うかどうかという問いは意味がないようにみえる。だが、個人差、変異があることを事実として認めるなら、生得的でも違いがあることになる。そして、それを確かめるには言語を通じたコミュニケーションに頼るしかない。それゆえ、「赤」を知るには「赤」という言葉を知ることが不可欠なのである。
 クオリアと実在は類似している。いずれも言葉ではない。にもかかわらず、言葉を通じてしかわからない。そのため、クオリアの存在と実在論は同じ構制をもっている。実在が理論に相対的な存在であるのと同じように、クオリアはコミュニケーションに相対的な存在である。

 語ることを止める、語ることを拒絶することによって、私たちは直面する現実から逃避することができる。それはヘレンの覚醒とは別の方向である。家庭内暴力にさらされる子供たちは、残酷で苦痛を伴う現実への対処の一つとして事実そのものを受け入れることを拒む傾向が強い。苦痛の除去のために感覚を遮断することが無意識的に採用され、自らの置かれた状況を拒絶し、それを述べる、語ることを止めるのである。私たちは判断を停止することができるだけでなく、情報の入力を拒むことができる。感覚的にだけではなく、言葉によるコミュニケーションをも否定するのである。引き籠りの人たちの多くが無口で、無反応であるのは現実の状況を否定するためであり、現実がコミュニケーションによってつくられることを知っているからである。
 言葉はコミュニケーションによって拡大された第二の感覚的知覚になっているのだが、その能力を意図的に否定するにはコミュニケーションを否定することしかない。感覚遮断のようにコミュニケーション遮断が行われれば、私たちは知覚の否定と似たような効果を手に入れることができる。言葉は人間の間を結びつける装置なのだが、それは同時に人間の間に隔壁を生む出す装置でもあるのである。否定することと、肯定も否定も拒むことは違うのだが、その外観はよく似ている。熟慮の末の判断中止ではなく、最初からの中止なのである。