三人三様:追記

九 鬼 隆 一(1852~1931)
 僧は厨子の扉を開けという申し入れを拒んだが、フェノロサ岡倉天心は激しく迫る。1884 (明治17)年夏、奈良の法隆寺夢殿。ほの暗い八角堂の中、一つの厨子を前に押し問答が続いた。厨子秘仏を納めたもので、その扉は数百年にわたり閉ざされたまま。ついに扉は開かれ、秘仏を包む布が解かれていく。やがて、端麗な姿の一体の仏像が現れた。法隆寺夢殿「救世観音像」再発見の瞬間である。この日の調査は、日本の文化財の学術調査、保護の記念すべき伝説となった。
 このドラマの背後にいたのが九鬼隆一。文部小輔 (次官クラス)として権力を握り、「九鬼の文部省」といわれ、文化財を行政が守る体制の原形をつくったのが九鬼隆一である。文化財という概念さえなかった時代に、その文化財の破壊や海外流出を防ぎ、次の時代に残した文化財行政の先駆者である。九鬼隆一は、三田藩 (現在の兵庫県三田市)の藩士の次男として生れ、幼くして丹波綾部藩家老九鬼隆周の養子になる。明治4 年、慶應義塾に入塾。翌年、文部省に出仕し、彼の官僚生活が始まる。木戸孝允らに認められ、とんとん拍子で出世。省内で絶大な権力を手にした。当初は、福澤の教えに基づき、開放的な自由教育を推進したが、政府の方針が儒教主義的に傾くと見るや転向。隆一と福澤の関係は冷め、「明治四十年の政変」によって決裂する。明治14 年、薩摩長州の藩閥主流派が、進歩主義路線をとる大隈重信を政府から追放、進歩的な福澤門下生も官職を追われる。隆一は「修身」の導入など、主流派路線の実現に力を尽くす。福澤は隆一を「ただ交際の一芸にて今日まで立身したる」と厳しく批判し、生涯彼を許さなかった。
 皮肉なことに、政府はすぐに開明的な学校制度を求め、明治17 年、開明派の森有礼が文部省に入る。隆一は同省を去り、駐米大使となり「日米犯罪人引渡条約」締結という成果を挙げた。彼はまた美術行政に強い関心を持ち、欧州の手厚い文化行政を知り、日本の古美術の現状に強い危機感を抱いていた。当時、同じ危機感を抱き、日本の古美術の保護を叫んでいたのがフェノロサと天心である。明治20 年、隆一は帰国。その後、図書頭、宮内庁臨時全国宝物取調委員長、帝国博物館 (現・東京国立博物館)総長などを歴任する。美術行政の重鎮となった隆一は、その後に通じる文化財保護の道を切り開いていく。自らも調査旅行に出るなど、古美術の調査を推進し、美術品の海外流出を防止。また、帝国博物館の開設に尽力し、京都、奈良の帝国博物館の設置、運営にも敏腕を振るった。
 明治29年には、一連の功績が認められ、男爵が授与されるが、東京美術学校で起こった日本美術派と西洋美術派の対立によって、岡倉天心の解任に続き、隆一は一線から身を引くことになる。
<妻・波津子と岡倉天心
 隆一が特命全権大使として米国に赴任中、妻の波津子は四男周造を妊娠。体調を崩し、隆一に先立って帰国する。隆一に代わり、岡倉天心が波津子に同行。二人は急接近していく。波津子は隆一のもとを出奔するが、この恋は波津子の発狂という悲劇に終わる。隆一とは1900年に協議離婚が成立。作家松本清張は、事件を題材に『岡倉天心 その内なる敵』を発表した。また、九鬼周造は後に哲学者として『「いき」の構造』などを著した。