妙高の方言

 標準語なるものをうまく操ることに支障がない程度の方言は確かに妙高地方にはあったし、今でもあるが、それは東北や関西にあるような立派な方言ではなく、単語とイントネーションの僅かな違いといった程度のものである。実際、妙高から東京に出てきた私は何の苦も無く東京の言葉を使って普通に話すことができた。
 それでも、子供の頃の耳はとても敏感で、盆暮れに東京で働く人たちが帰って来て話すのを聞くと、すぐにそれが標準語を使ったもので、妙高の方言による会話とは大変異なっていることを耳で感じ取ることが何度もあった。子供の私にとっては、東京で生活する人たちが何が目立って違うかと言えば、服装でも振る舞いでもなく、言葉遣いだったのだ。子供の耳にはまるで違う言葉に感じられ、その違う音の響きにあこがれと違和感を併せもったのは確かで、これは他の子どもたちも同じだったと思う。
 大学でラテン語を学ぶことになり、言葉に対する概念がすっかり変わった。今では英語が国際語として使われているが、それまでの国際語がラテン語であり、ローマ帝国以来ずっとヨーロッパに君臨してきた言葉であり、妙高の方言どころか日本語ともまるで異なる世界的な存在だった。ラテン語はかつて古代ローマ人たちが用いていた言葉で、ローマ帝国公用語として地中海世界に広まった。ただし、古くからの文明先進地であった地中海世界東部(オリエント)においてはラテン語以外の勢力も強く、特にギリシャ語はローマ帝国では第二公用語の地位にあった。なお、ローマ時代のラテン語にはアルファベットの大文字しか存在せず、UとVの区別もしていなかった。小文字が登場するのはペンで紙に書くことができる時代からである。ラテン語は非常に広い地域で使われていたので、各地で「俗ラテン語」と呼ばれる方言が生まれることになる。西ローマ帝国滅亡後、各地のラテン語の方言は次第に独自の変化をとげ、イタリア語、フランス語、スペイン語ポルトガル語など、お互いに半分ほどしか通じない別の言語となっていった。東ローマ帝国ではラテン語は使われず、もっぱらギリシャ語が用いられた。こうして東ローマ帝国ギリシャ語の帝国へと変化していく。しかし、キリスト教カトリックの宗教活動はすべてラテン語で行われていた。そのため、ヨーロッパの知識階層にとってラテン語は必須の教養であった。中世後期に、アラビア語ギリシャ語の書物がラテン語に翻訳されることにより、東方の文明が西欧に伝わり、それがルネサンス(文芸復興)につながっていった。近代に入り各国の公用語が普及し、教会もその地方に合った言葉で活動することが許されるようになり、国際語の地位もフランス語や英語にとってかわられ、ラテン語はほぼ過去の言語と見なされるようになった。ただし、過去を知るにはラテン語は不可欠の言語で、自然言語の中では飛び抜けて合理的な文法規則をもっている。
 言葉の持つ意義はとても大きい。ラテン語が重要であったように、妙高の方言も重要だったとはとても言えないが、それでも実際に使ってきた人々にはラテン語に置き換えることのできない意義をもっている。妙高の方言の実態の一部は以下のサイトで知ることができる。

春はうららの樽本
http://tarumotonosato.web.fc2.com/hougen.html
方言だけでなく、樽本風土記ともいえる、ふる里としての樽本の総合紹介になっている。

新潟県の方言ページ
http://www6.shizuokanet.ne.jp/kirameki/hougen/niigata.htm

おまん、知ってっかね~新潟県上越地方の方言
http://kanekori.blog76.fc2.com/

上越地方の方言
http://www.joetsuweb.com/hogen/hogen.htm