私が生きる世界(5)

6 古典力学と生活世界
 「私が生活する世界は古典力学がつくった世界だ」と言うと、きっと様々な誤解や反発を生むことだろう。この命題は「生活世界は力学の世界とはまるで異なる」と考える人には端的に誤った命題である。また、いまどき古典力学を信じる人などいないと考える人にも誤った命題である。だが、反発はさておき、それが誤った命題でないことを以下に示してみよう。
 古代の日本人は神話が語る世界を生活世界と信じて疑わなかった。だが、現在の日本人はそれが神話に過ぎなく、物理学が述べる世界が自分の生活する世界の真の姿だと信じている。信じる物理学が古典力学ということに異議を唱える人がいるに違いない。21世紀の現在、相対性理論量子力学、さらにはそれらより先端で模索されている物理学を信じないのかというのが異議申し立ての理由だろう。現在の私たちは自らの生活世界が古典力学の描く世界を基礎にした世界であるとほぼ無意識に信じ込んでいる、これがここでの私の言い分である。むろん、大抵の人は自分の生活世界のことを意識しておらず、ましてそれが何からなっているかなど考えたこともないだろうが。
 私たちが高校までに習う物理学は古典力学を中心とした物理学で、量子力学相対性理論は高校では教えないことになっている。大学で物理学を履修しない限り、私たちの物理学の知識は古典的なままである。その上、私たちが暮らす地球とその周辺は古典力学で説明でき、生活世界では古典力学を使って生み出される技術がほぼすべてを占めている。そのため、古典的世界観が現在でも私たちの物理世界についての常識的な世界観のままであり、実質的に私たちの生活世界を支配している。[1]
 古典力学をモデルにする世界は古典的であり、古典的世界観の範例になるような世界である。古典力学が成立し、瞬間と時点がいつでもどこでも存在し、物理量はいつでもどこでも確定した値をもち、物体の運動は連続的である、これらが古典的世界像の基本的な仮定である。私たちの生活世界も当然のこととしてこれらの仮定を受け入れており、さらにはそれ以上のものを数多く仮定している。どんな生活世界でも上の三つの仮定は同じように成立している。私にはそれを疑うような生活世界が思い当たらないし、それを否定するような生活世界は想像することさえできない。生活世界は古典力学だけからつくられている訳ではないが、古典力学を不可欠の基本的な仮定として含んでいる。古典力学を信じ切り、頼り切っているのが私たちの生活世界である。生活世界には物理学では説明できないものが数多く含まれている。だが、生活世界には物理的なものが何もないというのは誤った暴言に過ぎないと誰もが認めるだろう。生活世界にある物理的なものは古典力学が成り立つものなのである。
 古典力学-古典的世界像-生活世界という順に三つのものを並べたとき、何が見えてくるだろうか。古典力学のモデルとしての古典的世界像は物理世界のモデルである。そのモデルに色を付け、肉を加えたのが生活世界である。単純な運動からより複雑な変化に至るまで生活世界には様々な変化が加わる。意識の変化、感情の起伏といった心の変化はそのような変化の典型である。私たちの心は生活世界を利用することによって自らの思想や感情を巧みに表すことさえできる。

6.1決定論的な世界
 古典的世界観を代表する特徴が決定論であると言われてきた。ラプラスによる普遍的決定論の意義、古典力学決定論的か否か、それらを遡って、解析学幾何学、さらには古典論理学の二値性、あるいは論理的決定論、そして、その背後にある無限概念と考えなければならないことが目白押しである。
 概念と命題が二値論理に従うことは、概念が曖昧な外延ではなく明確な外延をもち、命題の内容が確定していることである。命題内容の確定の典型が物理量の値がいつでも、どこでも確定しており、それゆえその物理量を含む命題の真偽が確定することを意味している。決定論は古典的世界観の売りの特徴であり、それが生活世界では当然のこととして受け入れられてきた。

6.2非決定論の諸相
 何が決定していないのか。「わかる、わからない」ということと、「ある、ない」との違いはどこにあるのか、そして、その違いはきちんと表現できるのか。非決定論の具体例を通じて決定論と呼ばれてきた主張を見直すことが肝要である。そのための問いは、「わかる、わからないは、ある、ないの省略形か?」である。「わかるとわからない」は認識論的な区別、「あるとない」は存在論的な区別で違うというのが哲学をかじった人の常識的な反応であるが、決定論や非決定論存在論的な主張なのか、それとも認識論的な主張なのかを考えるう上で、重要な役割をもってくるのである。

[1] 大学で相対論や量子論をしっかり学んでも、それら理論が生活世界で何をどのように主張しているか説明できるかと尋ねられると、誰にもうまく答えられない。「変化が連続していて、瞬間や地点がある」という古典的な前提が成り立たない世界はどのような世界か改めて問われると、実は私たちにはよくわからない。