「煩悩が本能ならば、本能の何が煩悩なのか」と問われて…

 知識より知恵の方が高尚なのだとよく言われてきました。例えば、英語でも知識(knowledge)と知恵(wisdom)は別物と受け取られてきました。科学が知識を追求するものだとすれば、仏教は知恵をもって人々を導くものと分けて理解されてきました。ですから、科学者と宗教家はとても違う人種だと思われてきました。それが知識と知恵の違いを表しているのだと言われるとつい合点し、納得してしまいがちです。それに抗して、宗教や哲学の知恵は実のところ博物学的な擬似知識と同じ類の擬似知識に過ぎないのだというのが負けず嫌いの科学者の一般的な見解、弁解になっているようです。そんな僻みっぽい科学者は、知恵の特徴は知識のマニュアル化の巧みさ、知識の使い方のコツや技にあるだけなのだ、と低い(実は冷静で鋭い)評価しか与えないのです。
 宗教的であれ、倫理的であれ、知恵は通常臆病で慎重なものです。伝統や常識に従うのが常で、新機軸を打ち出すのは知恵と分別ではなく、知識と大胆な勇気です。知識は革新的ですが、知恵は保守的です。知恵の代表となれば、儒学や仏教、さらには養生訓などが思い浮かびます。その一例として仏教の「煩悩」についての理解の仕方を見てみましょう。欲望は重要な本能の一つですが、欲望は学習によって希望や意欲になる一方、悩ましい煩悩にもつながっています。私たちの本能は意思や意欲という肯定的な側面と煩悩や強欲という否定的な側面とを併せ持っています。
 本能的な欲求は食欲や性欲のような基本的なものから、嗜好品や好みの料理、服装などの衣食住のほぼすべてにわたっています。その広範で多様な欲求は学習によって具体化されていき、その実現が多くの場合人生の目的にまでなります。その意味で、欲求、欲望は人生を左右する訳です。

<人を毒する「三つの煩悩」>
 誰の心にも迷いがあります。仏教ではこれを「煩悩」と呼んできました。百八煩悩と言われるほどで、人の心はさまざまに迷い乱れます。なかでも、人の心を最も毒す代表的な煩悩が三つあります。それらは「貪欲(どんよく)」、「瞋恚(しんに)」、「愚痴(ぐち)」、略して「貪(とん)」、「瞋(じん)」、「痴(ち)」と言い、三毒と呼ばれています。
 「貪欲」とは、むさぼる心であり、自分だけがうまいことをしようとする強欲な心です。人間の欲には五つあります。食欲、睡眠欲、性欲という本能的欲望のほかに、財欲、名誉欲があります。これが五欲。こう書けば、食べることも、眠ることも、愛することも、みんな欲ということになります。「知足者富(たるをしるものはとむ)」と老子は言いました。彼は「欲をかくのは、ほどほどにしろ。そうすれば心は豊かになり、ふところも豊かになる」と言うのです。こういう心がけでいると、私利私欲はいつの間にか、「公利公欲」、つまり、社会のための利益を考えることになるという訳です。これを「大欲(たいよく)」と言います。ここまでくると、仏道の目的である「煩悩かえって菩薩(仏さまの心)となる」という境地にまで到達できるのです。
 さて、次の「瞋恚(しんに)」は怒りの心です。「よく怒る人は、欲が深い」と言われます。確かに、欲の深い人はわがままで怒りやすいのです。このように、貪と瞋は親戚なのです。「怒り」というのは、瞬間湯沸器のようにすぐカッとなることを言います。何かが心のカンにさわると、たちまち怒り出すのです。ところが、「瞋恚」の瞋(いか)りは、目を三角にして瞋ることであり、恚(いか)りは、恨みに恨んで恚ることです。したがって、「瞋恚」は、ねちねちと嫉妬心から瞋ることが多いのです。「生きかわり、死にかわり、たとえ地獄の果てまでも、この恨み晴らさずにおくものか」とは何と恐ろしいことでしょう。それにしても、人がみんな自分の思いどおりに動くわけがありません。それに腹を立てて、すぐ喧嘩をするのは、この上もなく愚かなことです。
 最後は「愚痴(ぐち)」。自分の望みがかなえられないと、愚かな喧嘩をはじめます。それに負けると、こんどは愚痴を言うのです。貪欲や愚痴の心で世の中を生きていると、他の人が困ることがわからない。それでいて愚痴をいうのでから、救われません。

 さて、このような分類とその説明をみてくると、一見説得力がありそうに見えます。説得力だけでなく、知恵がみなぎっているとさえ思う人がいるのではないでしょうか。でも、分類の根拠も、分類から何が主張できるかも実のところ定かではないのです。見かけだけの博物学的分類の典型例ではあっても、そこには妙な説得力があり、正に言葉の魔術、レトリックの威力と言っていいのかも知れません。
 でも、このように考える人は少なく、仏教、儒教錚々たる面々がこのように説明するだけでなく、実践し、実例を示すとなると、凡人はそれを真理として受け入れるしかありません。その受容は無理やりではなく、心底そう思ってしまうのですから、それは揺るぎない信念、さらには信仰にまで昇華していくことになります。
 本能を宗教化してみたのがこれまでの話で、それが煩悩でした。むろん、現在は煩悩を科学的に捉え、欲望としての仕組みを解明しようとしています。でも、科学的な解明とは離れて、私たちの生活の中では煩悩は煩悩としてどのようにつき合うべきか、個人のレベルで決定していかなければならず、そこに煩悩への対処が求められ、昔からの煩悩論が使われることになります。なぜ正しいのかわからなくても、生活する上では大いに助けになります。そうなると、正しい理由を断然知りたくなるのが人間です。そのためには、本能の科学的な解明が民間の科学(folk science)としての煩悩論の仕組みや真偽の判定に必要になってきます。タイトルの「煩悩が本能ならば、本能の何が煩悩なのか」という問いは煩悩論だけでは説明できず、そこに本能の科学的な解明が求められるのです。
 こうして、知恵がどのように正しいかを説明するには科学的な知識が必要なのだということになります。つまり、知恵を理解し、説明するのは知恵ではなく、知識なのです。