過去と未来:存在と認識(2)

 「言明は真か偽のいずれかの値をもつ」というのが二値性の原理(the principle of bivalence)。つまり、その内容は、(1)どんな言明も真理値をもつ、(2)言明の真理値は真か偽のいずれか一方である、の二つから成り立っていることがわかります。このメタ原理は言明の定義によってその適用範囲が決まる筈なのですが、今のところ言明の形式的な定義以外の実質的な定義は見つかっていません。そのため、適用範囲は曖昧な部分を含むことになりますが、この原理自体は存在論的な主張とも認識論的な主張とも解釈できます。
 言明が述べる出来事や事態の在り方についての主張とするのが存在論的な解釈で、事態や出来事は私たちがそれを知るか否かには関係なく、真あるいは偽の値をもつと解釈されます。また、その言明の真偽を知る、つまり実際に真偽を決定する際の原理と考えるのが認識論的な解釈です。これは出来事や事態を知ることとほぼ同じことです。存在論的には真偽の存在が、認識論的には真偽を知ることが主張されているのです。
 私たちの生活世界では言明の真偽を知ることをもとに世界の有り様を認識論的に捉えています。ですから、その世界で存在論的な主張だけを使うと、次のような主張が予想外のことに思われ、違和感をもつのです。

(1)未来は変えられないが、過去は変えられる

 これは「過去は変えられないが、未来は変えられる」という常套の表現に真っ向から反していますから、誰もが訝しく思うのではないでしょうか。「過去は既に決まったことであり、まだ決まっていないのは未来である」というのが私たちの常識で、日常生活、政治、経済のどんな議論でもこの常識が使われています。ですから、(1)の主張は常識に反する非常識なものということになります。そこで、(1)については大いに吟味が必要ということになります。
 二値性の原理がなりたっているとすれば、未来のどんな言明も真か偽かのいずれかの値をもっています。それは私が勝手に変えられるものではありません。でも、過去の言明の幾つかについては、既にその真偽がいずれかに決まっています。そして、その真偽の決定の幾つかは私たちがしたのであり、それゆえ、その判断が誤っていることがしばしば起こることになります。誤っている場合、それを是正すると、過去はそれまでとは違うものに変わることになります。つまり、私たちが決めた真偽は後日私たちが修正する、是正することになるのです。こうして、過去は時には変わることになります。
 この議論は一応もっともらしく見えるのですが、これを成り立たせているポイントは、「未来は変えられない」の「変えられない」は存在論的であり、「過去は変えられる」の「変えられる」は認識論的であるところにあります。未来のある事態の真偽は決まっていて、恣意的に変えられるものではないのですが、過去のある出来事の真偽決定は私たちがしたのであり、それは誤っている可能性が否定できないという訳です。こうして、「変える」ことの二つの意味の違いに(1)が真であるトリックがあることがわかります。
 存在論と認識論の違いといえば、それまでなのですが、丁寧に見直すと、どこにどのように存在論と認識論を適用するかの違いが見えてきます。過去に認識論、未来に存在論を適用すると、上記の(1)になりました。でも、この適用の仕方は(1)だけではなく、他にも考えることができます。過去にも未来にも一様に適用する、異なったように適用するといったことが考えられますから、丁寧に見直すと、論理的に四通りあることになります。

(2)過去は変えられないが、未来も変えられない(存在論だけの適用)
(3)過去は変えられ、未来も変えられる(認識論だけの適用)
(4)過去は変えられないが、未来は変えられる((1)とは異なる両方の適用)

それぞれの主張を既存の思想や世界観と照らし合わせてみると、すぐに連想されるのは次のような考えです。(2)は古典的決定論の主張そのもの、(4)は常識的な主張で、自由意志の存在とその行為論への適用、(3)はロマン主義的世界観ということになりそうです。
 二値性の原理はメタ原理です。その解釈は存在論的、認識論的のいずれによっても可能です。さらに、二値性の原理だけでなく、その否定についても考える必要があります。

<二値性の原理の肯定的で存在論的な適用>
 二値性の原理が成立し、私たちが個々の言明の真偽を知ることを考慮せず、真偽のいずれかに決まっていると仮定するのが形而上学決定論で、これは上記の(2)の主張に対応しています。世界の出来事、事態は私たちが知る、知らないこととは独立に決まっているという考え方になり、それを具体的に述べたのが(2)ということになります。

<二値性の原理の肯定的で認識論的な適用>
 古典力学がその典型例となります。古典力学は(2)を前提にした理論であり、それゆえ物理的(古典的)決定論が成り立っています。ラプラスの力学的な普遍的決定論存在論と認識論が古典力学によって一致することの表明なのです。通常の認識論的な適用は局所的決定論の主張になります。

<二値性の原理の否定的で認識論的な適用>
 二値性の原理を否定すると、真でも偽でもない言明があることになります。その言明の真理値は真偽以外の第三の値であり、言明は三つの真理値をもつと考えるのが三値論理です。そこから、一般化すれば、多値論理、Fuzzy論理と呼ばれるものになります。また、直観主義論理も二値性の原理が否定され、認識論的に数学的対象を捉えるため、多値論理と同様に排中律は成立していません。

<二値性の原理の否定的で存在論的適用>
 この適用は滅多にないように思われるのですが、代表例が量子力学コペンハーゲン解釈です。確率的な値をもつ言明がそのままミクロな世界の現象に対して成り立つというものです。ミクロな世界は古典的な決定論的世界に慣れた私たちにはとてもわかりにくい世界です。

 これまでの議論では存在論や認識論が過去や未来に関して適用される場合に、その適用のマナーがはっきりしていませんでした。私たちが実証的に判断して真偽を決めたものは修正の余地があり、それが科学的知識が暫定的だということの理由となっています。現在が確定していれば、過去も未来も確定しているという主張は認識論的であり、確定はいつも修正の余地があるのです。むろん、未来の出来事もそのような認識論的な意味では決まっていないのが普通ですが、存在論的には真偽いずれかの値をもつことは私たちの介入とは独立に決まっていることなのです。