脱亜と興亜、あるいは東京と故郷

 明治に入り、政治、経済、科学の知識が輸入され、それを吸収し、活用していく反面、伝統文化、芸術、宗教はそれまでの歴史を守る形で推移します。前者の代表的思想家が福澤諭吉だとすれば、後者のそれは岡倉天心です。二人の思想の違いは「脱亜」と「興亜」という標語で表現され、その謂い回しから二人は正反対の思想家であるかのように受け取られがちです。
 私の心の中では「故郷妙高から東京に出て、生きること」がこの「脱亜」と「興亜」の対概念とダブって、拮抗し合ってきました。「なぜ福澤諭吉岡倉天心なのか」と問われれば、妙高赤倉は天心終焉の地であり、福澤先生は私がいた大学の創始者だったという偶然的なきっかけからに過ぎません。

 まず、赤倉と天心についてまとめておきましょう。明治39年岡倉天心赤倉温泉を訪れました。天心は東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)の校長として、横山大観菱田春草、下村観山らを育て、日本近代美術の父とも言われています。彼は赤倉温泉を「世界一の景勝の地」と激賞し、別荘「赤倉山荘」を造り、赤倉温泉を「東洋のバルビゾン(19世紀にミレーに代表される風景画家たちが小さなバルビゾン村で活動し、バルビゾン派と称されました)」にしようと構想しました。天心は、赤倉温泉日本美術院を移し、バルビゾンに負けない芸術のメッカにしようと考えました。そこで、天心は横山大観菱田春草赤倉温泉に招きます。天心があまりに赤倉を誉めるので、師の意図を察した二人は天心が寝ている隙を見て東京に帰ってしまいます。大観と春草は、東京からは余りにも時間がかかる赤倉に美術院を移すことに賛成できなかったのです。北陸新幹線が開通した現在なら、二人の反応は違っていたかも知れません。
 平櫛田中は、天心の肖像を多数制作していますが、昭和六年に制作された現在の東京藝術大学美術学部の校庭に設置された「岡倉天心先生像」が最初のものです。この時、天心が野外に置かれたブロンズ彫刻が錆びて傷んでいくのを大変嫌っていたことから、五浦の六角堂を模したデザインの建物の中に設置しました。それ以後、天心ゆかりの地に天心のブロンズ像を制作する時には六角堂に入れる事が多くなります。赤倉でも、昭和41年に岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心座像(半身像、昭和33年作)が安置されています。

 故郷妙高はアジアのようなものなのでしょうか?かつて明治維新後の日本がアジアを捨て欧米についたように、私たちは妙高を捨て東京に出たのでしょうか?妙高の実情を憂い、妙高を興すために東京を脱するべきなのでしょうか?「地方創生」は脱東京なのでしょうか?こんな問いがよく出されるのが昨今の日本です。

 日本人が好きな国はどこでしょうか。私のような団塊の世代が若い頃は中国や韓国ではありませんでした。インドでもインドネシアでもなく、アメリカというのが大方の答えでした。アジアにありながら、アジアの国々より欧米の国々を好むのはどうしてなのでしょうか。江戸時代までの日本人なら、どの国が好きかというアンケートには今の私たちの回答とは異なる回答をしていたはずです。実際、欧米の国々を嫌い、攘夷を主張する人も多くいました。また、仏教を信じ、儒教道教を学び、それらが生まれた国々を当然のように尊敬し、好んだのではないでしょうか。それが変わるのが明治維新です。ヨーロッパやアメリカの実証的な知識を求め、富国強兵に励んだ明治政府の方針は私たち日本人の精神構造まですっかり変えてしまいました。見習うべきは欧米の文化、技術、政治、経済であり、旧態依然の清朝の姿ではありませんでした。明治以来私たちの関心の方向は欧米の列強にもっぱら向けられ、それが日本の運命を左右することになります。第二次大戦敗戦後も関心の方向は変わらず、アメリカに占領されることによって私たちの眼も心も戦前にもまして欧米に向けられることになりました。日本の国土は極東アジアに位置しながら、日本人の心は欧米に帰属し続けたのです。
 これらの変化を要約する語彙がまさに「脱亜」であり、さらに強調してダメ押しすれば「脱亜入欧」ということになります。そして、それと反対の単語が「興亜(出欧)」です。前者の代表が福澤諭吉とすれば、後者の代表が岡倉天心ではないでしょうか。むろん、二人の思想はこのような単純な分類に収まるわけはないのですが、まずはこのような二分法を受け入れ、より身近な例を見て行きましょう。

 私たちの日常生活の中の欧米とアジアを見比べるなら、圧倒的に欧米の品物、思想、文化が優勢を占めています。学校で習う知識のほとんどは欧米起源のものであり、食べ物や衣服も欧米に支配されています。車、電車、飛行機といった乗り物、家庭生活の品々、音楽や絵画、スポーツ等々、大半は欧米起源のものであり、それが自然に日本人の生活の中に溶け込んでいます。ジャズを聴き、ワインを飲み、ピザに舌鼓を打つことに何の違和感もありません。むろん、歌舞伎を楽しみ、日本酒を味わい、新蕎麦を心待ちにする心情も私たちには同居していて、その同居は極々自然なことなのです。若者たちには欧米と日本の間の違いを感じないのでしょうだが、だからこそ、欧米とアジアの違いは欧米とアフリカや南米の違いと同じようなものだと感じるのではないでしょうか。そして、自分たち日本人は欧米の一員であり、アジア、アフリカ、中南米とは違っていると判断しているのではないでしょうか。
 
 「故郷を捨てて、東京に出る」という謂い回しは、立身出世を夢見て刻苦勉励する姿と、故郷を裏切り、見捨てたという後ろめたい気持ちとが交錯する心の有り様を表現しているように思われます。生まれ育った故郷を離れ、東京に出て働き、都会の快楽を享受するということに後ろめたさを感じたことがある人の多くは、それでも帰郷するときに田舎にとどまった人たちに対して、ごく当たり前に優越感を持ってしまいます。出世した誇らしげな気持ちと故郷を裏切った慙愧の気持ちが相俟って、複雑な気持ちで故郷の情景に見入ることになります。今では故郷を捨てるわけでもなく、東京に憧れるでもないという人が多いのですが、戦前に、あるいは戦後間もなく故郷を出て東京に来た人たちは大抵この複雑な気持ちを共有しています。どこで生きるかということに心理的な優劣が執拗に残存していることも確かな事実です。「どこで生きるかは特別重要ではなく、どう生きるかが重要である」という優等生の答えなどこの上なく胡散臭いのです。
 誰にも故郷に対するそのような二面性が確かにあります。閉鎖的で偏狭、保守的で退屈極まりない故郷への嫌悪、憎悪の気持ちから故郷を離れたくなった人には、故郷とは訣別したのだという決断の記憶が鮮明に残り、故郷を忘れる、無視することがその人の生き方そのものとなるのではないでしょうか。嫌いな故郷は嫌いなままに捨て置くこと、それがその人の生き方となり、故郷が別の意味を持って眼前に登場するのは、恐らく50歳を越えて生活が一段落してからでしょう。
 福澤諭吉の「脱亜論」は、中国と朝鮮に対する日本の「無情酷薄」を主張するもの、という評価が下されてきました。福澤は現実主義者であり、その彼にとってみれば、アジアは西欧諸国の力による侵略、支配の酷薄さに気づいていない。そういう亡国のアジアとは手を切り、「ヨーロッパ文明と提携」して日本は自らの危機を脱してゆくべきだ、というのが「脱亜論」の主張だと考えられてきました。
 それゆえ、「悪友」だとして手を切った中国、朝鮮に対して、日本は見捨てたゆえの後ろめたさを感じ続けなければならなくなります。アジア主義という思想は、この後ろめたさの感情に根ざした抵抗、反動なのです。これは、多くの日本人が故郷を捨てて、都会へ出ていったがゆえに、「望郷の詩」を心の底で歌い続けなければならなかったのと同様の心理構造です。故郷を捨てた日本人が持つ「ふるさと幻想」と「アジア幻想」としてのアジア主義とは、農村から都市へ、アジアから欧米へ、という道すじをたどった近代日本が抱え込んだ心理的コンプレックスに他なりません。この病理的な後ろめたさの感情に、岡倉天心の「アジアは一つ」という言葉が甘く響き渡り、それがアジア主義を醸成することになったのです。そして、その幻想がさらに膨らみ、大東亜共栄圏という大いなる幻影をはぐくむことになったのです。

 脱亜も興亜も現在の政治情勢とは結びつかない概念です。実際、今ではイデオロギーも思想も経済の前には無力でしかなくなっています。とはいえ、人の心は不思議なもので、故郷と東京が興亜と脱亜に心の中でダブっていたのに対し、自国と他国が心の外で経済力で競い合うことになっています。